ROOTS 渡部大輔(前編) 【ちょい出しVAMOS】
大宮アルディージャマガジン『VAMOS』の人気連載『ROOTS』。アカデミー出身選手の原点を紐解くこのコーナーのアーカイブを、デジタルVAMOSで掲載! 今回は、現所属選手の中でアカデミー出身最年長となった渡部大輔編を、前後編の2回に分けてお届けします!
※2017年3月1日発行『VAMOS VOL.110』より。内容や役職は掲載時のまま

あのころがあるから、今がある ROOTS
渡部大輔(前編)

文=河合 拓

渡部大輔がボールを蹴り始めたのは、幼稚園の年中のときだった。

「幼稚園のころは親と遊んでもらう中で、サッカーと野球をよくやっていました。祖父からサッカーボールをプレゼントしてもらったことも覚えています。一人っ子だったので、ボール一つあれば遊べるだろうと思ったのかな。一人で壁に向かってボールを蹴ることもありましたが、大抵は親が外で一緒に遊んでくれていましたね」

1993年にJリーグが開幕。多くの子どもたちがそうであったように、渡部も当時、数多くの日本代表選手が名を連ねたヴェルディ川崎を応援するようになり、自然とサッカー選手になりたいと思うようになっていった。

だが、その決意の固さが、普通の子どもたちとは違った。

幼稚園の年中からサッカーを始めたが、当時は体操教室や水泳教室にも通っていた。体操教室で渡部を見た指導者は、飛び抜けた運動神経、身体能力の高さを目の当たりにし、体操をやらせたいと思ったという。しかし、体操にも真剣に取り組んでいた彼が、サッカーでプロ選手になりたいという強い意志を持っていることを知り、体操を続けることを薦められなかったという。

他のスポーツをやっていたことについて、「もともと体を動かすことが好きでしたし、体操や水泳もやっていました。いろいろな競技を経験させてくれたことは、今も生きていると思います」と、感謝する。だが、自分の中に夢は一つしかなかった。

「幼稚園でサッカーを始めたときから『プロになりたい』という思いがあったので、水泳や体操も真面目にやりましたけど、続けるのは厳しいかなと思って、すぐにサッカー1本でやっていこうと決めました」

幼稚園、小学校と地元のサッカークラブに所属していた渡部は、中学に入る前、大宮アルディージャJr.ユースのセレクションを受けた。大宮では新たにJr.ユースが立ち上がるタイミングであり、セレクションに合格すれば1期生になる。上級生がいないため、1年生のときから他チームの中学3年生たちと試合ができる。プロサッカー選手になると決めていた渡部は、そのセレクションで衝撃を受けることとなった。

「たまたま2人1組で対面パスをするとき、僕だけ余ってしまったんです。それで当時、Jr.ユースのコーチを務めていた望月聡さんが、僕の相手をしてくれることになったのですが、そのパス交換で、それまでに感じたことのない刺激を受けたんです。普通に蹴って、ボールを止めてっていうメニューで、何がすごかったかと言葉にするのは難しいのですが、『え?』ってなったのは強烈に覚えています。『大宮に入って、この人に教わりたい』という気持ちになりましたね」

渡部はセレクションの狭き門を突破し、見事に大宮Jr.ユース1期生の一人となる。プロサッカー選手になるという夢は、この時からより現実的な目標へと切り替わった。


2学年上の相手と戦ったJr.ユース1期生時代

現在、Jr.ユースはかつてトップチームが使っていた志木グラウンドを使って活動できているが、渡部が入った当時は堀崎公園グラウンドを借りていた。所沢出身の渡部は、片道2時間を掛けて練習に通った。学校の授業が終わると急いで電車に飛び乗り、19時から21時まで練習。練習後も駅まで走らなければ、終電に間に合わなくなる。普通の中学生とはかけ離れた生活だった。

「学校のみんなは、放課後も楽しそうだなという思いはありました。でも、僕にとってはそれが当たり前でしたし、サッカーが充実していたので、特に何とも思わなかったですね。むしろ今になって『もっと遊びたかったな』とは思います(笑)」

大宮Jr.ユースに入って最初に監督として指導を受けたのは、現在トップチームの指揮を執る渋谷洋樹監督だ。当時の印象について、「彼は埼玉で非常に有名な選手でしたが、Jr.ユースを立ち上げるということで大宮を選んでくれました。一人で相手を引きずりながらドリブルする。ストライカーで、フィジカル的にも無理が利きましたし、能力的にはズバ抜けていました」と、渋谷監督は振り返る。そのころは高い身体能力を持っていたからこそ、それに頼らないプレーを意識させたと回想する。

「スピードだけで突破していると、大人になってきたときに通用しなくなってしまいます。ボールを落とすこと、前向きの選手を使うこと、人が動いて空けたスペースをフォローすること――。成長するにあたって全部ドリブルでやっていくのは、難しくなる時期が絶対に来ると思っていましたので、02年と03年、そして私の後に指導した望月さんも、そういう点は意識してもらうようにしていましたね」

「それまで教わったことのなかったことを多く教わり、練習に付いて行くのでも精いっぱいだった」と渡部は言う。だが、同時に自身の成長をしっかりと感じ取ることができていた。

それでも、1年目、2年目は、勝てない試合が続き、大差を付けられる試合も少なくなかった。この年代で1学年、2学年違えば、身体能力はまるで異なる。だが、体格、当たりの強さ、スピード感がまるで違う格上の相手にどれだけ負けても、毎試合毎試合「どんな形でも勝ってやるんだ」という思いを持ち続け、工夫をして戦えたことは、大きな財産となっていく。

「勝てなかったことは悔しかったですよ。でも、そういう経験ができることを見越して大宮に入りましたし、やっぱり上の学年と対戦できる機会はそうありませんから、その中で自分たちがどれだけできるかを試せたのは大きかったと思います」

対外試合で年齢が上の選手たちから刺激を受けていたが、チーム内にも意識するライバルと呼べる存在がいた。ともに14歳のころからナショナルトレセンのメンバーに選出され、世代別日本代表にも一緒に選ばれていた柿沼貴宏だ。

「柿沼とは同じようなポジションで、2人でJr.ユース時代から選抜などにも選ばれていました。ライバル関係というか、互いに意識することで相乗効果があったと思います。『頑張ろう』と声を掛け合える仲間がいたのは、すごく良かったと思います」

上の年代と戦うことに慣れていた彼らは、中3のときにユースの高校1年生と戦っても勝てるようなチームになっていた。結局Jr.ユース1期生はタイトルこそ取れなかったものの、渡部を含む多くの選手がユースに昇格した。

河合 拓(かわい たく)
『週刊サッカーマガジン』編集部、『ゲキサカ』編集部を経て2015年よりフリーランスとして活動している。フットサルの専門サイト『FUTSALX』の立ち上げメンバーであり、フットサルにも造詣が深い。大宮アルディージャマガジン『VAMOS』では、塚本泰史クラブアンバサダーや秋元利幸プロジェクトマネージャーの連載などを担当している。

FOLLOW US