【特別掲載 第1回】大宮アルディージャ 創立20周年記念誌 巻頭コラム
サッカーと大宮。愛を紡いで20余年

サッカーのある日常が、かけがえのない日々だと感じる今だからこそ、大宮アルディージャが私たちの日常になったこの20年余年を振り返ってみてはいかがでしょうか。オフィシャルライターの戸塚啓氏が『大宮アルディージャ 創立20周年記念誌』の巻頭で執筆した「大宮アルディージャ20年の歩み」を、4月23日(木)から4日連続で全4回にわたってお送りします。

※文中敬称略。役職などは2018年の発行当時のものです。

<第1回>

2018年に生きる私たちは、アルディージャとともに過ごすことができている。

NACK5スタジアム大宮で開催されるホームゲームに足を運び、アウェイゲームで全国各地を訪れる。勝利したその日にインターネットの記事をチェックし、翌日の新聞を開くのは、どれほど繰り返しても飽くことがない。負けた試合を伝える記事も、それを読めば悔しさが倍増するのは分かっていても止められない。

サッカーから離れた時間にも、アルディージャが溶け込んでいる。食卓ならマグカップ、オフィスや学校ならマウスパッドやペンケースといったように、日用品をオフィシャルグッズでそろえているファン・サポーターは少なくないだろう。

グッズには不思議な魔力があるもので、目にするだけでアルディージャを思い起こす。週末の試合を考えて、気持ちが先走ったりする。

そうした日常が形作られて、2018年で20年になる。ただ、私たちが過ごす“いま”は、99年のJ2リーグ開幕戦を出発点とするものではない。振り返るべき前史がある。

大宮の街にJクラブを

96年12月、Jリーグは99年からJ1リーグとJ2リーグの2部制となることを発表する。これに反応したのが、大宮市サッカー連盟の有志たちだった。

有志代表を務めた松沢喜久夫が回想する。

「Jリーグ誕生とともに浦和にレッズが来て、大宮はどこか取り残されたような感じがあったんですね。私は社会人チームでサッカーをやっていて、NTT関東サッカー部の方と懇意にしていました。J2リーグ発足の構想が持ち上がったときに、ぜひ参加しましょうと提案したんです。大宮にJリーグのクラブを呼ぶ夢に一番近いのは、大宮公園サッカー場でジャパンフットボールリーグ(JFL)を戦っていたNTT関東サッカー部でしたから」

97年1月には早くも『大宮にJリーグを呼ぼう会』が立ち上げられ、2月にクラブの招致に向けたPR活動を開始する。4月下旬には大宮市民やサッカー関係者、サッカー愛好者の賛同を得るための署名活動をスタートさせた。

「4月25日のJFL、対川崎フロンターレ戦で大宮公園サッカー場に動員をかけて機運を高め、5月10日と同17日に大宮駅周辺と高崎線、宇都宮線、川越線、東武線沿線の各駅で署名活動をしました。各駅に5、6人で、全体では100人ぐらいが動いたはずです」

左から新藤享弘・大宮市長(当時)、中田昭雄・初代クラブ社長、松沢喜久夫氏

署名を呼び掛ける書面は、大宮市内で活動するスポーツ少年団にも届けられた。

「サッカーを愛する人々の夢――。みんなで一つのことに夢中になれる。このエネルギーは、私たちの愛する大宮の街をより活き活きとさせることでしょう! サッカー王国埼玉に、二つのJリーグチームがあっても楽しいのではないでしょうか。大宮は、その声に応えることのできる街だと思います」

松沢らの熱い思いが添えられたA4サイズの署名欄には、のちにアルディージャを支える選手も名前を書き込んだ。

金澤慎である。

「僕が中学生のときに、署名活動があって参加したんです。そこから少なからず、縁があったのかもしれませんね」

松沢らが奔走して集めた署名は、招致の要望書とともに大宮市長に提出された。これが5月28日である。スピード感あふれる活動には、有志ではなく“勇士”や“雄姿”という表現さえ似合う。大宮にJリーグのクラブを招致するんだという、燃え盛るほどの情熱が感じられるではないか。

「5万人の署名を目標としていた中、大宮市に提出したのは4万5,000人分と報道されましたが、4万8,000人は集まったんじゃなかったかな。6月にはNTT関東サッカー部の運営母体であるNTT関東支社に、大宮市を本拠地とするチームとしてJ2リーグへ加盟申請をしてほしい、との要望書を提出しました」

NTT関東サッカー部は、97年に廃部が検討されていた。バブル崩壊による景気の後退によって、スポーツの存在価値が社会的に問われ始めていた時代である。数年後にはJリーグや女子サッカーのクラブが消滅に追い込まれているから、プロ化へ舵を切るのはどの企業にとっても簡単でなかった。

NTT関東サッカー部も廃部へ向けた人員調整を進めていたが、一転してJ2参入を目指すことになる。『大宮にJリーグを呼ぼう会』の活動が、後押しとなったのは想像に難くないだろう。さらに付け加えれば、97年のJFLで前年から4つ順位を上げ、16チーム中9位に食い込んだことも、経営陣の方針を転換するきっかけとなったかもしれない。

97年8月、NTT関東サッカー部はJリーグにJ2への参加申請を行ない、12月に承認を得た。隣の川越市からも招致の要望が届いていたが、大宮市をホームタウンとすることも同時に決定した。

Jリーグのクラブ名は「地域名+愛称」となっている。新たなチーム名の公募がすぐに行われ、2,705通もの応募が集まった。ドイツ語の「シャルフ」(激しい、鋭い)、イタリア語の「フォルツァ」(頑張れ)や「アランシオ」(オレンジの意)などが最終候補に残った中で、最終的に「アルディージャ」が選ばれた。

アルディージャは「リス」を意味するスペイン語で、リスは大宮市のマスコット的存在だった。「観客に愛され、地域に密着し、リスのようにスピーディーなサッカーを展開していくように」との思いが込められた。

キーマンの参画

アルディージャとして初の公式戦は、98年4月5日のJFL開幕戦である。大宮公園サッカー場でサガン鳥栖と対戦した。この日を迎えるまで、招致活動が始まってからわずか1年3カ月しか経過していないのは、驚くべきスピード感だと言えるだろう。

プロ契約選手も迎えたチームの初陣に、松沢は胸の高まりを抑えられなかった。

「ああ、始まるんだなあ、と思いましたね」

時を同じくして、『大宮にJリーグを呼ぼう会』は発展的解消を遂げていた。大宮青年会議所、大宮商工会議所青年部、大宮市サッカー協会、NTT関東サッカー部OB会などが中心となって、『大宮アルディージャを支援する会』が3月に発足していたのである。

ここでも松沢は勢力的に動いていた。J2リーグ開幕に合わせて『大宮アルディージャ後援会』が発足すると、初代理事長に就任した。

当時40代後半である。働き盛りの彼がアルディージャのために時間を費やすのは、簡単ではなかったはずだ。しかも、彼が流す汗に対価はない。手弁当である。

「言われてみれば、確かに仕事は忙しかったですね。何が自分たちを動かしていたか、ですか……。私は大宮で生まれて、大宮で育ってきた。サッカーにも親しんでいました。社会人になってNTT関東サッカー部と、一度だけですが試合をしたこともあるんです。地域で夢を持てるか、夢を与えられるかと考えたときに、同じ思いを持った人たちが集まった。その中で、たまたま私が中心の一人になった。そういうことだと思いますね」

大宮アルディージャとなったチームは、98年のJFLを戦いながら翌年のJ2リーグへ向けたチーム編成を整えていく。7月にはNTT関東サッカー部時代を含めても初の外国籍監督として、オランダからピム・ファーベックを招へいした。同じくオランダからセンターバックのヤン・フェーノフ、ストライカーのヨルン・ブーレを獲得していた。

99年1月には、フロントに強力な人材が加わった。清雲栄純がゼネラル・マネジャー(GM)に就任したのだ。

「私が現役時代を過ごし、引退後は監督を務めた古河電工サッカー部は、NTT関東サッカー部と会社ぐるみで交流があったのです。アルディージャとなったクラブにも、以前からの知り合いがいました」

清雲は92年から93年にかけて、日本代表でコーチを務めていた。監督はオランダ人のハンス・オフトだ。1970年代に智将リヌス・ミケルスとカリスマ的プレーヤーのヨハン・クライフを擁し、“トータル・フットボール”で世界を席巻したオランダのスタイルは、オフトにもピムにも共通するものがあった。

99年から約13年半にわたってクラブを支えた清雲栄純

ピムのチーム作りに想像を働かせられる人材として、清雲は適任者だったと言えるだろう。98年限りでU-19日本代表監督を退任していたことも、アルディージャには天の配剤となった。

「ベースはポゼッションにある、というのはオフトもピムも同じでしたね。チームとしてポゼッションをしながらボールを動かしていく。そのためには、しっかりとボールを扱える選手が欲しい。ボールを止める、蹴るという技術を持った選手をそろえた上でフィジカルを高めていく、というのがピムの考え方でした」

オランダ人指揮官は、新戦力の発掘に意欲的だった。練習後やオフの日には清雲がハンドルを握り、ピムは大きな体を助手席に押し込める。Jクラブや大学の練習試合を見に行くのだった。食事の時間も惜しいということで、ピムは自分で作ってきたサンドイッチを車中で食べていた。

「アマチュアだったチームがプロになるということで、プロとは何かということをクラブ全体に植え付けていくこともGMの仕事でした。私が現役時代を過ごした古河電工は、Jリーグ開幕とともにドイツ代表のピエール・リトバルスキーやフランク・オルデネビッツを獲得しました。私も監督として彼らと仕事をし、日本人選手に対する影響力を間近で見ていました」

しかし、清雲は同じ手法を持ち込まなかった。J1ではなくJ2のクラブだけに、リトバルスキーのようなビッグネームを呼び寄せるのは難しいという事情はあったのだろう。同時に彼は、NTT関東サッカー部時代から培われてきたクラブの伝統を大切にするべきだ、と考えていた。

「アマチュア契約でも、しっかりとした考え方を持った選手がいました。オランダやドイツでも、下部リーグではアマチュア契約の選手や学生がプレーしている。そういうことも知っていたので、J2に参入するために全員をいきなりプロ契約にしよう、即戦力の選手をどんどん補強しよう、とは考えなかったですね。それよりも、サッカーにしっかりと取り組むことができて、アルディージャが目指すサッカーに合った選手でチームを編成しよう、というのが我々の方針でした」

第2回:4月24日(金)掲載へ続く――

戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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