【特別掲載 第2回】大宮アルディージャ 創立20周年記念誌 巻頭コラム
サッカーと大宮。愛を紡いで20余年

サッカーのある日常が、かけがえのない日々だと感じる今だからこそ、大宮アルディージャのある風景が日常になったこの20年余年を振り返る本企画。

第1回では大宮アルディージャ誕生の軌跡を振り返った。98年に誕生したクラブは、99年にJリーグ参入を果たし、J1昇格という目標に向かって一歩ずつ前進していく。

※文中敬称略。役職などは2018年の発行当時のものです。

<第2回>

大切なのは地域とのつながり

99年を迎えたチームには、社員契約の選手がいた。斉藤雅人はその一人である。埼玉県の武南高校で全国大会に出場し、駒澤大学を経て98年にNTT関東サッカー部に加入した彼は、黎明期からクラブを知る存在としてアルディージャの歴史に欠かせない人材となっていく。

「僕自身は、選手としてクラブを離れた人もスタッフとして戻って来たいと思えるような、居心地の良いクラブにしたいと考えていました。それは仲良しグループということでは決してなく、みんなが一つの目標へ向かっているという意味です。当初は茶髪NGという方針もありましたし、真面目に、ひたむきにプレーするという姿勢は、NTT関東から大宮アルディージャになっても変わらない伝統になっていったと思います」


当時も珍しかった社員選手としてプレーした斉藤雅人


当時は、クラブハウス兼選手寮が隣接された志木市の河川敷でトレーニングをしていた。しかし、大雨に見舞われると使えなくなることもあり、いくつかの公共施設を並行して利用していた。

清雲が振り返る。

「腰を据えてトレーニングができる整備されたグラウンドが欲しいと、ピムはいつも言っていました。グラウンドさえ良ければ、このクラブはJ1に昇格できるぞ、とも。彼は環境をものすごく重視していました」

清雲は、3年でJ1昇格という方針を掲げていた。99年はJ2で10チーム中6位となり、三浦俊也が監督となった00年は11チーム中4位と、徐々にJ1昇格へ接近していく。

そして迎えた01年は、前半戦を17勝3分2敗の首位で折り返す。ところが、快進撃を牽引していたストライカーのバルデスが、パナマ代表の試合で負傷してしまう。代わってブラジル人FWバレーが得点源となるものの、最終的には5位にとどまった。

3年計画は主砲の離脱で実現しなかったものの、01年にはその後の成功につながる補強を実現させた。ブラジル人センターバックのトニーニョを獲得したのだ。

「チームの軸となるセンターバックというポジションの選手としてはもちろん、彼は人間的にも素晴らしかった。リーダーシップがあり、チームのためにプレーできる。ディシプリン(規律)を持って戦う我々のスタイルに合った選手でした」

こう語る清雲は、トップチームの強化と同時進行で地域との結びつきを深めていく。「それもGMの仕事ですから」と笑みをこぼし、「最初のころはね」と切り出した。

「J1昇格を目指してアルディージャになったけれど、『NTTのクラブでしょう』と言われることも少なくなかった。サッカークラブとして地に足を着けていくためには、地域とのつながりが欠かせないし、行政との連携も必要になる。そのために色々なところへ足を運びました。『埼玉県には浦和レッズがあるんだから、それで十分じゃないんですか』という声も聞きましたが、そのときに僕が説明したのは、イタリアのローマのような大都市にも、スペインのバルセロナにも2つのクラブがある。同じ街のクラブがダービーを戦っているんですよ、ということでした」

93年に10チームでスタートしたJリーグには、マリノスとフリューゲルスによる横浜ダービーがあった。フリューゲルスが98年に消滅し、横浜を舞台としたダービーは短期間で幕を閉じていた。2000年前後のJリーグで、街を二分する戦いはセレッソとガンバによる大阪ダービーしかなかったのである。

サッカー先進地域の欧州や南米では、一国のリーグ戦に数多くのダービーが存在する。地域だけでなく国を二分するようなスケールの、ナショナルダービーと呼ばれる戦いもある。

アルディージャをたくさんの人に知ってほしい。応援してほしい。ダービーの魅力に触れてほしい――。欧州のサッカーにも詳しい清雲は、自然と熱を帯びていったに違いない。

「ダービーは、クラブ同士のプライドを懸けたぶつかり合いという側面だけでなく、地域の経済を潤したり、地元を愛する気持ちを育んだりする効果を持っている。レッズと我々では、クラブの規模が違う。それは分かっていますが、アルディージャを大宮の人たちが誇りに思うクラブにしたい。J1でダービーを戦って、地元を盛り上げたい。そのためにも、一緒にこのクラブを育てていってくれませんか、という気持ちで行政や地元企業の方々と話をしていきました」

地域とのつながりについては、アルディージャ後援会の力添えも大きかった。地元に詳しい松沢らの存在は、クラブの大きな支えとなっていた。

「クラブのスタッフにも地元出身の方がいましたけど、私たちも街のことはよく分かっていますから。クラブが立ち上がった当初は、営業担当の方と一緒に商店街のお店を回ったりもしました」


育成が未来を拓く

未来を見据えた投資も進めていった。サッカーの普及と選手の育成である。清雲が説明する。

「普及を主に担当していた佐々木則夫と、必死になってやりました。10年後、20年後のチームを見据えたときに、普及と育成は絶対に欠かせないものですから。アルディージャのDNAを持った選手が、トップチームへ上がってくるようなシステムを構築しようと。いい指導をするには、いいコーチがいることも大事なので、そこにも必要なお金をかけるようにしました。そして、子どもは学校にきちんと通うことも大事なので、アカデミーの選手は自宅から通える範囲を基本として選びました。地元出身の選手がトップチームに増えれば、それもまたクラブを応援してもらえるきっかけになりますから」

そうした環境によって輩出されたのが金澤である。ユース1期生としてアカデミーに加入した彼は、志木のグラウンドに自転車で通っていた。

「最初は電車と自転車を使っていたのですが、電車のダイヤと練習時間がうまく合わなかったんです。それならばと、高校1年の夏から自転車だけに変えました。自宅からは1時間くらい掛かるのですが、僕にとっては気分転換の貴重な時間でした」

高校2年時からはトップチームの練習にも参加するようになった。志木クラブハウスの筋トレルームは、トップ、ユースの共用だった。

「トップチームの選手と同じタイミングで筋トレをすることもありましたし、ユースの選手たちに声を掛けてくれる方もいました」

J2リーグの試合を、スタジアムで見る機会は少なかった。週末には自分たちの試合があるからだった。大宮サッカー場で試合を観戦したのは、シーズンに数回ほどだった。

それでも、トップチームのサッカーをイメージすることはできた。ユースでのトレーニングは、同じ絵を描けるものだったのである。

「当時のトップチームと同じように、[4-4-2]のゾーンディフェンスを採用していました。それによって、ユースからトップへ上がる選手がスムーズに適応できるようにしていると聞いていました」

清雲が補足する。

「ヘンクは99年限りでチームを去り、00年からはコーチだった三浦が監督になりました。我々が一番大事にしていたのは、誰が監督になろうともスタイルを踏襲してやり続けること。しっかりボールを動かしてイニシアチブを握って、切り替えを早くする。ボールに厳しくアプローチする。そういったベースになることを、誰が監督でも、選手が入れ替わってもやっていく。変えていけないベースを大事にしていきました」

金澤がトップチームに昇格するのは02年である。アカデミーからの人材供給はここから始まっていくのだが、新卒や他クラブからの補強にもこだわりがあった。


トップ昇格初年度の02年、金澤慎はサガン鳥栖との開幕戦でプロデビューを果たした


埼玉県出身の選手に注目をするのは、その一つにあげられる。01年に加入した川島永嗣は、県立浦和東高校からアルディージャの一員になった。のちに日本代表まで登りつめ、海外移籍を果たす川島は、当時から高い志を胸に秘めていた。

清雲が言う。

「高校3年から、1年の半分以上は練習に来ていました。トップチームの練習に参加し、プロのシュートを受けていた。自転車で1時間くらい掛けて通っていたはずですが、練習にはいつも意欲的に取り組んでいて、体のケアとか食事にも興味を持っていて、スタッフに色々と聞いていた。高校生当時からイタリアへ行きたいと言っていて、語学も勉強していたんじゃないかな」

選手の獲得におけるもう一つの基準が、メンタリティーである。プレーヤーとしてのポテンシャルや可能性を大前提としつつ、ピッチ内外でチームの一員として振る舞えるかどうかを、清雲は重視していた。

「ファミリー的な雰囲気を大事にしました。ピッチの内外で助け合う気持ちを持たないとチームには居られないという雰囲気は、NTT関東時代からプレーしてきた岡本隆吾や斉藤、98年に加入した奥野誠一郎らが作っていってくれたもので、ユースからトップへ昇格した金澤らも肌で感じていってくれたでしょう。インターナショナルな舞台で活躍してきた、あるいは現在進行形で活躍している選手はいなかったけれど、家族のように結束して戦う雰囲気がありました」


ヤジを飛ばさないという信念

結束感はチームだけではない。コアなサポーターが集まるゴール裏も、01年あたりから少しずつまとまりを強めていった。それまで複数のグループが、それぞれに声援を送っていたが、30人ほどのグループに集約されていくのだ。

「毎回スタジアムで会う人が少しずつ増えていって、顔なじみになった人たちが集まっていった、という感じですかね」

こう話すのは森清一郎である。J2参入初年度から大宮公園サッカー場に通い続け、わずかな空白期間があるものの、03年から10年もの長きにわたってコールリーダーを務めた。アルディージャの試合でおなじみのチャントは、ゴール裏の最前列中央に立つ彼の指揮によってピッチに注がれていた。

「主なメンバーは30人ぐらいでしたが、全員が全試合に来られるわけではない。働きながら応援している人もいましたし。01年のアウェイ・鳥栖戦だったと思うんですが、サポーターが5人しかいなかったはずです。それが、昇格した04年は同じアウェイの鳥栖戦に30人ぐらいが集まった。それでもまだ30人かと思うかもしれませんが、増えたよねっていうのが僕らの感覚でした」

サポーターと呼ばれる彼らは、試合前にミーティングを開く。前の試合の応援について意見を出し合い、修正点を整理する。その上で、これから行われる試合の意味を確認し、応援の構成を組み立てていくのだ。試合後にも集まり、反省会を開く。

ゴール裏で声を枯らす行為は、無償の愛情に基づいている。試合に通い続けられる環境を確保するために、転職をするサポーターもいた。誰にでもできることではない。

「当時はまだ若かったからできた、というところはあったかもしれませんね。サポーターの数を増やすために、何か働きかけをしたことはないんです。僕らがやっていることって、人数が多いから楽になるわけではない。5人でも10人でも、100人でも500人でも、やることは同じですからね。いつだって黙っている場合じゃない。声を出さなきゃいけない。それはともかくとして、02年ぐらいからゴール裏に人が増えてきたかなあ、という感じはありました」

コアなサポーターが増えた理由は……、森はほとんど間を置かずに答える。

「チームの戦いじゃないでしょうか。真面目に、ひたむきに戦っていくアルディージャのサッカーに心を動かされた人が、また次の試合も、というふうになっていったんだと思います」

99年から03年までの5シーズンは、J1昇格にたどり着けなった。ファン・サポーターからすれば悔しさを募らせる結果だが、選手たちが責められた場面は多くなかったはずである。アルディージャの試合でブーイングを聞くことは、当時からかなり例外的だった。

「負けた試合の後に、選手にヤジを飛ばしたことはないですね」と森は言う。「グラウンドに背中を向けて、無言で意思表示をしたことはありますけど」と、遠慮がちに言い添える。

サポーターと呼ばれる人々がブーイングをするのは、相応の理由がある。耳をつんざくような甲高い音色は、必ずしも非難を意味するものではない。「次こそ勝ってほしい」といった激励や、「もっとできるはずだ」といった叱咤の意味が含まれているものもある。

その上で言えば、アルディージャのファン・サポーターは温かい。思いやりの心にあふれている。プロならもっと厳しくてもいいという意見があるかもしれないが、クラブとファン・サポーターは思いやりの心で結ばれていった。


05年J1第32節・ガンバ大阪戦の森氏。前列右でアウェイユニフォームを着ているのが本人


第3回:4月25日(土)掲載へ続く――


戸塚 啓(とつか けい)

1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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