【特別掲載 第3回】大宮アルディージャ 創立20周年記念誌 巻頭コラム
サッカーと大宮。愛を紡いで20余年

サッカーのある日常が、かけがえのない日々だと感じる今だからこそ、大宮アルディージャのある風景が日常になったこの20年余年を振り返る本企画。第2回では現在の基礎を作った、1999年から2000年代初頭の地域とのつながりや育成面に焦点を当てた。その後、クラブは悲願のJ1昇格を果たし、日本のトップリーグでの戦いに身を投じるのであった。

※文中敬称略。役職などは2018年の発行当時のものです。

<第3回>

ダービーの恍惚

斉藤の言葉は示唆に富む。

「J2で最初に戦った99年から04年までの6年間、ファン・サポーターの皆さんは優勝争いに関われない時期でも一生懸命に応援をしてくださいましたし、負けた試合の後でも、『次は頑張れ!』という声を多くいただきました。個人的に印象深いのは、J1初昇格を決めた04年の水戸戦です」

04年11月20日に行なわれた水戸ホーリーホックとのホームゲームには、10,546人の観衆が詰めかけた。大宮サッカー場を舞台としたホームゲームでは、史上初めて1万人の大台を越えた。

「スタジアムに入った瞬間から、『この試合で決めるんだ』という皆さんの期待を強く感じることができました。僕らも負ける気はしなかったですし、ファン・サポーターの皆さんにようやく恩返しができた、と感じました」

水戸を3-1で退けたアルディージャは2位を確保し、初のJ1昇格を決めた。クラブの歴史に強く刻印された一戦である。ファン・サポーターなら誰もが記憶に止めているに違いなく、森も「もちろん、よく覚えています」と話す。

「でも、翌05年のJ1開幕戦も、僕の中では忘れられない試合ですね。サッカー専門誌などの開幕前の順位予想を見ると、アルディージャを最下位にする解説者やジャーナリストが多かった。順位予想の記事を見るたびに悔しい気持ちでいっぱいでしたから、最高に気持ち良かったですね」

05年3月5日、万博競技場へ乗り込んだアルディージャは、この年のJ1リーグを制するガンバ大阪を2-0で下す。西野朗監督が率いる相手には、日本代表に選ばれていた宮本恒靖、遠藤保仁、大黒将志らがいた。圧倒的不利をささやかれる中で、81分に桜井直人、89分には森田浩史がゴールネットを揺らす。トニーニョと奥野を中心とした守備陣も、攻撃的なスタイルの相手を抑え込んだのだった。

J1で初めて実現した“さいたまダービー”でも、アルディージャは周囲を驚かせた。5万人を超える観衆で埋め尽くされた埼玉スタジアム2002で、2-1の勝利をつかんだのだ。7月9日のJ1第15節は、雨中のナイトゲームだった。

G大阪との開幕戦に続いて、桜井はこの試合でも得点を挙げた。前所属チームの東京ヴェルディ1969でレギュラー格だった当時29歳の彼は、さいたまダービーを戦うためにアルディージャへ移籍してきた。

「(東京Vの)アルディレス監督にはレギュラーで使ってもらっていて、05年も戦力として考えてくれていた。自分としても大好きなチームだったんですが、アルディージャの一員としてさいたまダービーで戦いたい、という思いで移籍を決断したんです。それだけに、アウェイで勝ったのは最高の気分でしたね」

浦和でプロのキャリアをスタートさせたこともあり、相手サポーターから激しいブーイングを浴びた。それがまた、負けず嫌いなストライカーの闘志に火をつけた。

アルディージャのファン・サポーターは、スタジアムのごく一部を占めることしかできなかった。チケットの割り当て数に限りがあったのだろう。数的不利は著しいが、森はゾクゾクするような興奮に包まれていた。


05年7月9日のさいたまダービー。桜井直人(中央)のゴールにサポーターが沸く


「相手のサポーターより自分たちの方が少ないと、いつも以上に燃えるんです。相手を黙らせてやるぜって。それがさいたまダービーですからね、忘れられませんよ」

アルディージャがリードしたまま後半のアディショナルタイムに突入すると、彼らは『無敵大宮』を歌う。逃げ切りチャントと呼ばれるものだ。

2-1でリードしているのだ。いつもなら無敵大宮を大合唱するはずだが、森は声が出ない。

アルディージャがJ1リーグの舞台に立ち、浦和とのダービーで今まさに勝利をつかもうとしている。それも、大観衆で埋まる埼玉スタジアムで――。周囲に響き渡る天性の大声を持つ男が、試合終了を待たずして涙を抑えられずにいたのだった。

そんなときだった。森の指示を待つことなく、無敵大宮の声が上がった。

コールリーダーの役を引き受ける森の視線は、基本的にピッチではなくスタンドへ注がれている。アルディージャがゴールを奪っても、誰が得点したのかを確認できないことが多い。

ともに声を張り上げる仲間たちが歓声を上げ、拳を突き上げ、抱き合うことで、彼はスコアが動いたことを知る。勝利が訪れたことを実感する。

この日もそうだった。完全アウェイの中で聞く無敵大宮は格別に誇らしく、誰一人として最後まで声を出すことを止めない。

そして、試合終了のホイッスルが鳴り響く。

涙でにじむ森の視界の向こう側では、オレンジ色のファン・サポーターが最高の笑顔を浮かべていた。


大宮でプレーする意味

J1昇格後のアルディージャは、優勝争いに絡むことができずにいた。シーズンが終盤にさしかかると、残留を懸けたサバイバルを争うのがパターンとなっていった。

次のシーズンこそは、より高いレベルで戦いを繰り広げるため――。クラブはトップチームの編成を充実させるべく、J1の他クラブから日本人選手を獲得し、ブラジル人を中心に外国籍選手も補強していった。

シーズンごとの編成に違う角度から光を当てれば、他クラブの選手に「プレーしたい」と思わせるクラブになっていった、と言うこともできる。

例えば、06年に東京Vから加入した小林慶行は、アルディージャを「自分にとって特別なクラブ」と評した。旧与野市出身の彼にとって、大宮公園サッカー場は「子どもたちにとっての聖地であり、紛れもない憧れの場所だった」のだ。

「そういう少年時代を過ごした僕がプロになり、大宮公園サッカー場をホームスタジアムとするアルディージャでプレーすることができ、主将まで務めさせてもらった。僕にとっては本当に特別なクラブですよ」


アルディージャのサッカーに惹かれ、オレンジのユニフォームに袖を通した選手もいる。例えば、04年から06年まで在籍した久永辰徳はその一人だ。

96年にアビスパ福岡とプロ契約を結び、02年に横浜F・マリノスへの期限付き移籍を経験していたサイドアタッカーは、プロ9年目にアルディージャへやってきた。04年のJ1昇格と05年のJ1残留に貢献する中で、久永は「ディフェンスの面白さを知ることができました」と話していた。

「しっかりとしたオーガナイズでいい守備をすれば、いい攻撃につなげることができる。それまで言われていたことが、アルディージャであらためて理解することができました」

12年にJ2の東京Vから加入した高橋祥平は、複数のオファーからアルディージャを選んだ。将来性豊かな当時21歳のセンターバックは、「組織的な守備をすると聞いていたので、そのチームの一員になってディフェンス力を磨きたいと思ったんです」と、決断の理由を明かした。「将来的には海外でプレーしたい気持ちもあるし、そのためにもアルディージャでディフェンスを学びたい」とも話していた。

14年のJ2降格決定によって、高橋はヴィッセル神戸へ移籍した。17年からはジュビロ磐田に在籍している。アルディージャで過ごした2年間は、伸び盛りの才能を大いに刺激したと言っていいはずだ。

監督はどうだろう。04年に3シーズンぶりに就任した三浦は、 昇格と残留を果たして06年に退任した。三浦の在任3年は、18年現在も最長である。監督の在任期間をたどると、フロントの苦労がにじむ。

ここで重要なのは、クラブの方向性である。監督が代わっても、選手が入れ替わっても、NTT関東サッカー部から育んできた伝統を失うことはないのである。金澤の肌触りは、周囲を納得させるはずだ。

「全員がチームのために自分の力を出し切って、仲間のミスをカバーしあったり助け合ったりして、ハードワークしてファミリーのように戦ってきました。それは02年のトップチーム昇格当初から感じていましたし、大宮アルディージャの核になっている部分だと思います。いろいろな選手が加入してきても、その部分だけは失わずにきました」

金澤に続くアカデミー出身の選手も登場していく。08年にはJr.ユース1期生の渡部大輔が、トップチーム昇格を果たした。

所沢市出身の彼は、片道2時間を掛けて日々のトレーニングに通った。練習後も最寄り駅まで走り、電車に飛び乗るような日々を過ごす。トレーニング後は心身ともに疲れ切っているはずだが、電車内で教科書や参考書を開き、時間を有効活用して勉強に取り組んだ。成績は常に学年で上位をキープするほどだった。

サッカーと勉強を両立させる指導は、清雲が打ち出した育成方針である。クラブの伝統を知る人材が指導の現場に立っていたことも、真面目さやひたむきさが後進に受け継がれていくことにつながったはずだ。

Jr.ユース時代の渡部は、渋谷洋樹に指導を受けている。NTT関東サッカー部で選手としてプレーし、引退後はアカデミーのスタッフに加わった渋谷は、14年8月から17年5月までトップチーム監督を務め、かつての教え子である金澤や渡部らを再び指導した。渋谷の後を継いだ伊藤彰、18シーズンの原崎政人ヘッドコーチと大塚真司コーチも、かつてはアルディージャでプレーしたOBである。彼ら3人はアカデミーでも指導経験を積んだ。クラブの遺伝子を知るスタッフとアカデミー出身選手の関係は、トップチームでも見られるようになっている。


渋谷監督はJr.ユース時代にも渡部を指導。クラブの伝統を紡いでいく

第4回:4月26日(日)掲載へ続く――

戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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