第1回:斉藤雅人【私のベストイレブン】

かつては選手として、現在はクラブスタッフとしてアルディージャを支えるOB選手に、ベストイレブンを選んでいただきました。今後、現役選手バージョンも!? 選定基準に縛りなし! 自分を入れるかは、本人の自由! 第1回の選定者は、2009年に現役を引退し、現在アカデミーのヘッドオブスカウトを務める斉藤雅人さんです。
構成:岩本勝暁

第1回 斉藤雅人

FW:桜井直人(2005-2008/50試合/9得点)
FW:バルデス(2001-2002/50試合/ 34得点)
MF:島田裕介(2000-2005, 2007/69試合/6得点)
MF:安藤正裕(2001, 2003-2005/128試合/9得点)
MF:小林慶行(2006-2009/91試合/10得点)
MF:小林大悟(2006-2008/90試合/14得点)
MF:斉藤雅人(1999-2009/289試合/13得点)
DF:冨田大介(2004-2009/190試合/10得点)
DF:トニーニョ(2001-2006/222試合/19得点)
DF:奥野誠一郎(1999-2007/265試合/7得点)
GK:白井淳(1999-2001/113試合/0得点)
監督:ピム・ファーベック(1999)
※カッコ内はJリーグ参入後の所属年/大宮でのJリーグ戦出場試合数/得点数

ピム・ファーベック監督の可変システムを軸に選んだ11人

まずファン・サポーターの皆さんに知ってほしいのは、かつて大宮アルディージャにピム・ファーベックという監督がいたということです。彼が20年以上も前に取り入れていた考え方は、今のサッカーに置き換えても新しく、その代表的なものに可変システムがあります。

守備時は4-4-2で、攻撃に移行すると3-2-4-1に変化するというもの。今ではすっかり浸透したこの可変システムを僕たちは20年前からやっており、ピムさんの哲学はこれからも大宮アルディージャの“血”の一部として受け継がれていくことでしょう。そんなことを思いながら、ベストイレブンを選ばせていただきました。

監督は、もちろんピム・ファーベックさん。可変システムが機能した試合で思い出すのが99シーズン、大宮公園サッカー場でのアルビレックス新潟戦です。1-0とスコアこそ僅差だったものの、相手にボールを奪われることなく、ずっと自分たちで動かしていたという試合でした。

ピムさんは、プロの選手としてどう振る舞うべきかを教えてくれた人でもありました。こんなエピソードがあります。当時はチーム名が大宮アルディージャに変わったばかりで、選手たちには統一の練習着がありませんでした。中には、他社のスポンサーが入ったウェアを着ていた選手もいた。それを見たピムさんが怒り、すぐにウエアをそろえようと言ってくれたんです。プロの選手は、ピッチ外でも大人のように振る舞わないといけない。それがピムさんの口癖でした。

まだアマチュア選手が多かった時代に、「プロのGKが来た」という強烈な印象を与えてくれたのが白井淳さんです。普段は優しいのに、ピッチの中ではすごく感情をあらわにしてチームメートに檄を飛ばす人でした。引退後もGKコーチとして活躍。選手、コーチの両面からお付き合いさせていただきましたが、アルディージャを熱い思いで支えてくれた一人です。川島永嗣選手も忘れられない選手の一人です。当時から海外でプレーすることを目標に、語学の勉強もしていました。そういう姿勢があったからこそ、世界で活躍できる選手になれたんだと思います。

4バックの右は奥野誠一郎さんです。本来はセンターバックの選手ですが、可変システムにおける攻撃時は3バックの右に入るため、4-4-2の守備時は右サイドバックに入ってもらいました。対人プレーやヘディングが強く、リーダーシップも取れる頼れる存在です。ファン・サポーターの皆さんからよく言われるのが、07シーズンの最終戦(川崎フロンターレ戦)。僕のJ1初ゴールで同点に追いつき、J1残留が確定しました。このシーズン限りでの引退を発表していた奥野さんに捧げるゴールになったことを覚えている人も多いでしょう。

実は03シーズンが終わった後に、あるJ1クラブからオファーを受けていたそうです。本人もすごく迷っていた。だけど、僕が何の根拠もないのに、「来シーズンも大宮でプレーして、一緒にJ1に行きましょう」というようなことを言ったんですね。その言葉があったから移籍を思い止まったのかは分かりません。しかし、結果的に翌04シーズン、一緒に昇格を果たすことができました。僕と奥野さんの絆は、とても深いものだと思っています。

可変システムのことを伝えたかったので、僕をセンターバックに入れさせてもらいました。当時のセンターバックは体が大きくて強い選手が多く、僕のような170cm余りの選手が入るなんて考えられない時代でした。だけど、ピムさんは「全然、問題ない」と。「守備は精いっぱいやってくれたら、それでいい。ただし、攻撃時は一つ前に上がって、ボールを動かしてくれ」と言ってくれたんです。

フォーメーションを3つのラインで分けたときのDFとFWのライン、あるいはピッチを縦に3分割したときの左右のレーンをコネクトしてほしいと言われていました。つまり、コネクター(つなぎ役)ですね。そういう意味でも、このポジションの特性として、ピッチがよく見えて状況判断ができることが必須だと思います。

トニーニョほど、アルディージャを愛してくれた外国籍選手はいません。日本人より日本人らしい。それくらい真面目で、仲間のことを思ってプレーできる。そういう彼の人柄がピッチの外でも表れることが多かったです。2年前のクラブ創立20周年記念OBマッチにも来てくれました。冗談で「旅費はいらないよ」と言うくらい、アルディージャのためならいつでも日本に行くと言ってくれたんです。久しぶりに見た彼は少し太っていましたが(笑)、すぐにみんなと打ち解けて、NACK5スタジアム大宮のロッカールームに当時の雰囲気が一気に蘇りました。

トミ(冨田大介)は決してうまい選手ではありません。ただ、すごく頭が良くて、自分に何ができて何ができないかを整理できている選手です。できることは精いっぱいやり、できないことは人に任せる。だからこそ、42歳まで現役を続けられたのでしょう。ヘディングがメチャクチャ強かったですね。あとは賢く守って、周りと連動しながら相手のボールを奪う。コーチングも的確で、とにかく頭の良い選手でした。

ボランチは(小林)慶行を選びました。慶行とは駒澤大学でも一緒にプレーした仲です。僕が3年のときに彼が1年。彼は旧与野市の出身なので、2年間はほぼ毎日、同じ電車で通っていました。当時は「すげえのが入学してきたな」と思いましたよ。だって、入部して1回目の練習で監督に文句を言ってるんですから。「この練習、意味あるの?」って(笑)。「コイツとは友達になれない」と思ったけど、帰りの電車で話していくうちに仲良くなりました。選手としては非常に技術が高く、周りがよく見えている選手。アルディージャに来て、地元でプレーできる喜びを感じながらプレーしていました。

小林大悟選手は僕が一緒にプレーした中で唯一、天才と呼べる選手です。ドリブルはできるし、パスもできるし、シュートもできる。後ろから見ていて、「次は何をしてくれるんだろう」というワクワク感がありました。僕らでは思い浮かばないようなアイデアでプレーするし、「そんなとこが見えているんだ」というところにパスをする。可変システムでは、攻撃時にトップ下に入って得点に絡んでくれるでしょう。近年、ピッチを縦に5分割した5レーンの考え方も浸透してきましたが、この中間のハーフスペースに大悟がいるだけで、相手からしたらとても嫌な存在になると思います。

右サイドのアンちゃん(安藤正裕)は、01年に加入。キックが上手な選手で、バルデスとのホットラインを築きました。セットプレーからのアシストも多かった印象です。日本代表も経験しており、確実に仕事をこなす選手でした。「代表を背負っている選手ってこんな感じなんだろうな」と思ったことを覚えています。J1昇格を決めた04シーズンのキャプテン。運動量は日本でもトップクラスで守備範囲が広く、そういう意味でも、この可変システムにピッタリな選手だと思います。

右のアンちゃんに対して、左のスペシャリストがシマ(島田裕介)です。キックの種類が多く、しかも、その全てをピンポイントで合わせられる。バルデスにクロスを上げてくれるシマがここにいるといいなと思いました。平野孝さんや橋本早十もアリだと思います。どちらもクロスの精度が高く、甲乙つけがたい。非常に競争が激しいポジションです。

そして、もう一人、下平匠選手をカッコ書きで入れました。と言うのも、今回のメンバーは、僕が一緒にプレーした選手であることを前提に選ばせてもらっています。ところが、下平選手が在籍したのは12年から2シーズンのみ。つまり、カッコ書きで入っているのは、“一緒にプレーしたかった選手”です。

同じ理由で、サク(桜井直人)のところに家長昭博選手を入れました。先に家長選手から説明すると、皆さんもご存知のとおり、大宮アルディージャに在籍した日本人選手の中でもベストプレーヤーの一人です。決定力や存在感は、間違いなくナンバーワンでした。

そして、同い年で小学校も隣同士だったのがサクです。だから、小学生のときからずっと対戦していました。僕のチームは旧浦和市でずっと優勝していたけど、彼は予選一回戦で負けるようなチーム。チームのレベルに差はあったけど、彼だけは一人、別次元のプレーをしていました。高校時代もライバル校としてずっと対戦していて、サクは浦和レッズに加入。プロになってもライバル関係が続きました。初めて仲間として戦うようになったのは、彼がアルディージャに加入した05年から。ドリブルの切れ味、テクニックがすごかったですね。決定力もあったし、男気もあった。練習中にチームメートとつかみ合いの喧嘩をすることもあって、それくらい気持ちのこもったプレーをする選手でした。

最後はバルデスです。僕が一緒にプレーしたストライカーの中でも、一番多く点を取った選手でしょう。J1に最も近づいたと言われた01シーズンは、途中離脱するまで18試合に出場して21得点。試合数を上回るゴールを決めています。彼の特徴の一つが、対空時間の長いジャンプでした。

相手よりも先に跳んでいるのに、相手よりも後に着地するんですから。一度、聞いたことがあるんです。「デリー(バルデスの愛称)、何でそんなにジャンプ力があるんだよ」って。彼、日本語がペラペラなんです。すると、ニヤっと笑いながら「マサ、内緒だよ。実はスパイクにバネが入っているんだ」って(笑)。あながち嘘じゃないだろうと思うくらい、ものすごい跳躍力の持ち主でした。

他にもたくさんの選手の顔が思い浮かびました。「なんで俺を選ばないんだよ」と森田浩史あたりから怒られそうです(笑)。とにかく僕が伝えたかったのは、クラブの礎を築いてくれたピム・ファーベック監督の存在です。Jリーグの再開が待ち遠しいですが、そういう過去を知った上で今の選手たちを見ていただけると、応援する楽しみもきっと増えるんじゃないかと思います。

斉藤雅人(さいとう まさと)
1975年生まれ、埼玉県出身。旧浦和市で育ち、武南高校、駒澤大学を経て、クラブがJリーグ参入前の98年に加入。大宮一筋12シーズン、背番号15を背負って活躍した。現在は育成部ヘッドオブスカウトを務める。

FOLLOW US