Vol.65 マツオ ジュン【ライターコラム「春夏秋橙」】

ピッチで戦う選手やスタッフの素顔や魅力を、アルディージャを“定点観測”する記者の視点でお届けする本コーナー。今回は「特別編」として、6年ぶりに帰ってきた泉澤仁選手について、ヴァンフォーレ甲府の番記者マツオ ジュンさんに紹介していただいた。

Vol.65 マツオ ジュン

 一番の驚きは昨年9月に全治6カ月のケガを負った泉澤に、大宮がオファーをしたことだ。全治6カ月といっても、試合に出場するパフォーマンスを取り戻すにはそれ以上の時間を要する可能性があることは誰もが分かっているだけに、クラブの思入れの強さを感じた。泉澤自身は移籍にあたり、短いコメントを出すのみだったので詳しいことは分からないが、30歳で迎えるシーズンを、プロのキャリアをスタートさせた大宮で仕切り直したいという気持ちがあったのかもしれない。

 甲府に加入したのは2020シーズン。その前は横浜F・マリノスとポーランドのポゴニ・シュチェチンに在籍したが、2クラブ合わせて公式戦は2試合出場で1ゴール。泉澤の能力を考えれば全く受け入れられない結果だが、彼は多くを語らなかった。

 ただ、「海外移籍はタイミングが大事だということがよく分かりました」と話してくれたことが印象的だった。日本より選手の売り買いがドラスティックな海外。クラブの思惑があるなか、実力よりも売りたい選手を積極的に起用するという“タイミング”に泉澤は苦しめられたようだった。

 厚い選手層を持つ横浜FMでも出場機会に恵まれず、20年からJ2甲府に加入。伊藤彰前監督の期待、希望が強かったと思われるが1年目から“ゼロヒャク”と言われる一瞬の速さ・すごさを見せつけた。

 相手ディフェンダーを一瞬で抜き去って上げるクロスを見るのは気分がよかった。第35節の磐田戦で負傷して終盤は戦列を離れたが、28試合に出場して3ゴール・4アシスト。決定力にはやや不満が残ったが、それまで甲府の選手になかった――モーターで動く電気自動車のようにすぐに最大トルクを出せる――“ゼロヒャク”というエンターテインメントは刺激的だった。

 そして、2年目の21シーズンは完全復活と言える活躍を見せた。背番号は11ではなく、阪南大から大宮に加入した14年の背番号39に変更し、横浜FMから完全移籍となった。

 9月1日の練習中に左足のアキレス腱断裂という全治6カ月の大ケガを負ってしまったが、そこまでの結果だけでも26試合で10ゴール・4アシストのキャリアハイの実績。ケガなくやれていれば15ゴール以上は十分に可能な勢いだったし、20ゴールに到達できたかもしれない。
泉澤が26試合で10ゴールを挙げることができた理由の一つには、サイドに開くだけでなく“中”に積極的に入っていったことが挙げられる。伊藤監督は練習グラウンドにペナルティエリア外からゴールポストに向かうラインを左右にテープで示して意識付けを行ったが、このラインを意識することで泉澤の中への積極性が引き出された。  しかし、対戦相手は2〜3枚で泉澤をマークしてくるので常にサイドの局面を打開できるわけではない。泉澤は「(自分がサイドで)ボールを持ったときには(スペースがなくなるのでサポートに)寄ってこないでほしい。(抜くときは)目の前のディフェンダーではなく、二人目を見ている」というほどの自信を持っていて、一人で局面を打開してきたが、対戦相手も研究・対策は行ってくる。“泉澤対策”で難しい時期もあったし、前線からの守備を求められるなかで、攻撃のパワーを残す難しさにも直面した。泉澤自身は守備をやっている意識があっただろうし、現にやっていたのだが、チームが結果を出せない時期は前と後ろで思いがズレることはある。それを修正する時期のケガで本当に残念だった。  結果として若手がチャンスを得ることになってチームとしての躍動感は高まったが、昇格には至らずの3位。チームのバランスが再構築できた終盤に「仁がいれば……」という思いは残った。全てはタラレバになってしまうが、大宮でプロになったときの話を聞くと、「僕がサイドでボールを持つとスタンドが沸くのは感じました」と少し照れながら話してくれていたが、その記憶が今回の移籍の後押しではないかと推測する。ケガが癒えた泉澤がフレッシュに躍動する姿は、大宮のファン・サポーターを再び魅了するはずだ。

FOLLOW US