【聞きたい放題】大橋尚志「あらためて、やらなきゃと思いました」

選手やスタッフにピッチ内外に関わらず様々な質問をしていく本コーナー。今回は、4月8日に行われた第8節・モンテディオ山形戦でJリーグ通算200試合出場を達成した大橋尚志 選手に、これまでのサッカー人生を振り返ってもらいました。

聞き手=粕川 哲男

「あらためて、やらなきゃと思いました」


鹿島のアカデミーで研鑽を積む

――Jリーグ通算200試合出場、おめでとうございます。
「ありがとうございます!」

――ご自身のなかでは「よく頑張ったな」という手応えと、「もっとできたな」という思い、どちらのほうが強いですか?
「そうですね、『もっとできたな』のほうが強いですね。もうちょっと早く達成したかったと思いますし、満足って感じではないですね。数字だけを見れば『200試合かぁ』という感慨もありますけど、あらためて内容を振り返ると、胸を張れるほどの実績ではないですから。鹿島(アントラーズ)で試合に出られず、J2(ツエーゲン)金沢に行って多くの経験を積ませてもらったことへの感謝の気持ちはありますけど、やっぱり一番上のカテゴリーでやりたかったという思いはあります」

――サッカーを始めたのは7歳。チームは茎崎ブレイズFCでしたね。
「小学校1年生の終わり、2年生にかけてくらいでした」

――ホームページを見たら、部員数減少を受けて2021年度で活動を終えたのだとか。
「そうなんです。自分が通っていた中学校も部員が集まらなくてサッカー部がなくなった、と聞きました。茎崎は同じつくば市でも研究学園のほうとは違って、牛久とか龍ヶ崎に近い田舎なので。僕たちの代は人数が多くて、1学年16人くらいいたんですけどね」

――実家に帰ることもあるんですか?
「最近は、ちょくちょく。僕は妹がいるんですが、まだ小さくて、今年小学校に入学したばかりなんです。だから時々会いに行っています。20歳離れているんで、やっぱりすごく可愛いんですよね()

――中学時代は、鹿島アントラーズつくばジュニアユースでプレーしました。
「はい。小学校56年生とスクールに通って、中学に上がるタイミングでセレクションを受けて、入りました。でも、全然エリートじゃないです。『受けてみな』って軽い感じで言われて、まさか受かるとも思っていなかったので。いまでは県内外から選手たちが集まる強豪ですが、当時はそこまでじゃなかった。自分たちの一つ上が1期生で、グラウンドも転々としているような感じでした」

――そこから鹿島ユースに昇格できるのも、選ばれた選手のみですよね。
「つくばからは僕を含めて二人だけユースに上がりました。ユースは1学年下のレベルが高かったんです。平戸太貴(京都サンガF.C.)、町田浩樹(ユニオン・サン・ジロワーズ/ベルギー)、垣田裕暉(鹿島)、田中稔也(レノファ山口FC)とかがいて、僕たちの代でも彼らが中心になって試合に出ていました」

――同じ代でトップチームに昇格したのは、大橋選手と鈴木優磨選手だけですか?
「自分と優磨だけですね。自分は静岡か岩手の大学、どっちかに行こうと決めかけていた時期に監督に呼ばれて、トップに上がれると言われました。めちゃくちゃうれしかったです。面談には母も来ていたので、すごく喜んでくれました。優磨と別々に話を聞いて、一緒に寮に帰って、部屋で2人で話しました。あの日のことは、いまでもよく覚えています」

 

トップチームで受けた衝撃

――大橋選手がトップ昇格した2015年当時、鹿島のトップチームは強烈な顔ぶれでした。ボランチのポジションには小笠原満男選手(鹿島アカデミー・テクニカルアドバイザー)と柴崎岳選手(レガネス/スペイン)がいて、翌年に永木亮太選手(湘南ベルマーレ)と三竿健斗選手(サンタ・クララ/ポルトガル)が移籍してきました。
「それまでのサッカーとはまったく違う、と感じました。練習から独特の緊張感と言うか、簡単なミスを許さないムードがありました。新人だろうがベテランだろうが、一つのパス、一つのプレーに対する要求レベルがものすごく高くて、球際の激しさは試合以上でした。いまになって思えば、鹿島で過ごした2年間はアッと言う間でしたけど、僕にとってはものすごく貴重な時間で、恵まれた、すばらしい日々でした」

――2年目の2016年にはチャンピオンシップで川崎フロンターレと浦和レッズを破って、J1優勝を経験しました。
「スタンドで見ていましたけど、負ける感じが全然しませんでした。それと年末にクラブワールドカップがあって、決勝でレアル・マドリーと対戦しました。柴崎選手が2ゴールを決めた、あの試合です。(クリスティアーノ・)ロナウドとか(ルカ・)モドリッチ、(カリム・)ベンゼマとかセルヒオ・ラモスがいたチームを相手に2-4ですからね。中盤の4人は小笠原選手、柴崎選手、永木選手、遠藤()選手。そんなチームに自分が絡むイメージは、まったく湧きませんでした。もう、ただただすごかった。感想はそれだけで、食い込んでやろうとまで思えませんでした」

――2017年に金沢に移籍して5シーズンを過ごしました。
「いま考えてみれば、いろいろなことがありました。濃かったです。柳下(正明)監督に信頼してもらえたのか、たくさん試合に出させてもらいました。監督、クラブスタッフ、ファン・サポーターの方々には感謝しかありません。一番学んだことはやっぱり強度ですかね。闘う部分に関しては、柳下監督がずっと言い続けていることで、どのチーム、どの監督でも絶対に求められます。守備に関しても勉強させてもらいましたけど、一番は闘う姿勢に関して。そこは5年間を通じて成長させてもらったと感じています」

周囲に支えられて達成した200試合

――大宮に加入した昨季は、霜田正浩監督の下で開幕から先発出場を続けましたが、思うように結果を残せませんでした。
「それまで霜田さんと面識があったわけじゃなく、金沢でのプレーを評価して、やりたいサッカーに合うってことで声を掛けてもらったんだと思います。ずっとダブルボランチでやっていて、アンカーに慣れていなかったこともあってうまくいきませんでした。結果を残せなかったことで、チームとしても個人としてもネガティブな方向に行ってしまった。いま考えれば、そこが悔やまれます」

――昨年の6月5日を最後にベンチにも入れない状況が続きました。難しい時期に、どう気持ちを保って練習に臨んでいたのでしょうか?
「う~ん……気持ちを保てていたかと言われると、正直、自信はありません。もちろん、やらなきゃいけないのは分かっていたんですが、時にはやる気がなくなったり、気持ちが乗らなかったりしたときもありましたから。だけど、試合に出られない状況は自分自身で変えるしかないと思い直して、周りに左右されず、自分がやるべきことに目を向けようと思いました。そこはいまもすごく意識している部分です」

――頑張れたのは、どんな支えがあったからですか?
「やっぱり、応援してくれるファン・サポーターの方々ですね。あとは、チームの仲間。一緒にご飯に行って、話を聞いてもらえるだけでも、救われました。(矢島)輝一くんは家に招待してくれて、そこでサッカーとは関係ない話をしました。自分は愚痴を言うのも聞くのも好きじゃないので、ホントくだらない、バカな話が多かったです。でも、そんな時間がずいぶん支えになりました。もちろん、試合に出られないまま選手として終わっていっちゃうのは嫌だったので、必死に練習を続けましたし、それが今後にきっとつながると思って、いまも頑張っているところです」

――200試合出場を懸けてひさしぶりにベンチ入りしたモンテディオ山形戦の前には、「でも、去年の6月から試合に出ていない」と、みんながいい感じでイジってくれたそうですね。大橋選手を認めているからこそ言える言葉だと思います。
「認めているかどうかは分かりませんが、めちゃくちゃ言われました()。金沢では、そんなにイジられる感じでもなかったんですけどね。でも、イジってもらったほうがうれしいと言うか、気を遣われるほうが嫌なので、ありがたかったですね」

――後輩からもイジられていると聞きましたが、誰ですか?
「それはもう、圧倒的に大澤朋也です()。アイツはすごいです。僕のことを先輩とは思っていないので。たぶん、6個くらい下なんですけどね」

――200試合出場を達成した山形戦後の集合写真を見ても、大橋選手がみんなからいかに愛されているのかが分かります。
「やっぱり、うれしかったですね。ファン・サポーターの方々にも祝ってもらえましたし、練習場まで来て声を掛けてくださる方もいたので。あらためて、やらなきゃと思いました」

――ボランチは最激戦区ですが、今後どんなプレーで違いを見せていきたいですか?
「自分にできるプレーは何かを考えたとき、一番先に挙げられるのは守備だと思います。守備に関しては試合に出ている選手にも負けない自信があるので、練習から攻撃も磨いて、ポジションを奪って、ファン・サポーターの皆さんの期待に応えられるよう、これからも一生懸命に頑張ります」


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