【聞きたい放題】小島幹敏「300試合はJ1で、先発で出たいですね」

選手やスタッフにピッチ内外に関わらず様々な質問をしていく本コーナー。今回は、4月22日に行われた第11節・清水エスパルス戦でJリーグ通算200試合出場を達成した小島幹敏選手に、9年目を迎えたプロキャリアを振り返ってもらいました。

聞き手=平野 貴也

「300試合はJ1で、先発で出たいですね」


お祝いは300試合で

――Jリーグ200試合出場を記念してキャリアを振り返っていただくインタビューですが、小島選手はセレモニーを行いませんでした。数字にこだわりはないのでしょうか?
(プロ6年目に達成した)100試合のときもやりませんでしたし、いいかなと。100試合出場は、最初の節目だし、2年目までは(所属チームで)1試合も出られなかったわけだから、100試合行ったんだと思って、うれしかったですし、200試合ももちろんうれしいです。でも、自分の中では300試合まで行ったら一流という感じがするので、そのときに祝ってください」

――初の公式戦出場は、プロ1年目の2015年。J3でJリーグ・アンダー22選抜 (Jリーグが若手の試合機会を創出するため、各チームから試合の度に22歳以下の選手で構成された)の試合でした。
U-22選抜は、同い年の高山和真がよく出場していたし(日本代表になった)中山雄太とか中谷進之介くんとか、良いメンバーはいたけど、言ってしまえば寄せ集め。試合経験を積んで、チームで生かすのが理想ですけど、正直に言えば、あまり参加したいとは思っていませんでした。確かに公式戦ですけど(初出場の)感慨みたいなものは、ありませんでした」

――大宮では、プロ2年目の16年にルヴァンカップ2試合、天皇杯1試合に出場。最初はルヴァンカップのジュビロ磐田戦でしたが、終了間際1分間の出場でした。
「磐田戦は覚えてないですが、次の鹿島戦はうっすら覚えています。たしか、決定機があって外しました。公式戦に出られたことや、NACK5スタジアム大宮のピッチに立てたことがうれしかったと思うんですけど、やっぱりリーグ戦に出たいという気持ちだったと思います」

――当時、チームの主軸は家長昭博選手。15年にJ2優勝。16年はJ1で5位、天皇杯もベスト4。強かったチームで何を感じていましたか。
「当時は、強いなというくらい。でも、すごかった。アキくんは、すごすぎましたね。速いし、強いし、うまい。ほかにも江坂任、泉澤仁、ムルジャ、マテウス……。個性の強い選手が多かったし、自分が入る隙間はないのかなと。でも、メンバー外で試合を観ているときに、出場停止か何かで出ていなかったアキ君が隣で『幹敏、出れるだろ。いけるよ』と言ってくれて、出ればできるのかなとちょっと思っていました」

 

水戸に武者修行へ

――プロ3年目で水戸ホーリーホックへ期限付き移籍しました。開幕戦でリーグデビューを果たし、J2で16試合に出場しました。
「試合に出て結果を残さないと、とは思っていましたけど、静かに燃えている部分もあり、出たらやれる、大丈夫だろうと楽観的だったような気もします。開幕の湘南戦で途中出場して、やっとリーグ戦に出られたなと思いました。あのシーズンの水戸は『前田大然フィーバー』で13試合負けなしとか調子も良かった。オレは途中からケガで離脱して、戻って来てから(33節の)フクアリでの千葉戦で初先発しました。当日の朝、ホテルで緊張していたのを覚えています。(1-2)負けたけど、そこそこやれたという感覚でした」

――ケガによる離脱がそのときくらいなのは、200試合出場達成の大きな要因だと思います。
(中野)誠也くんみたいな(瞬間的に)力強いダッシュとかはできないし、プレースタイルによるところもあるのかなと思いますけど、ケガはしないですね」

――水戸での2年目、18年は長谷部茂利監督の下で、主力として39試合に出場しました。
「めちゃくちゃ、充実していました。使い続けてくれたシゲさんには、本当に感謝しています。ダンディーで、声かけがうまくて、選手に下を向かせない監督でした。伊藤涼太郎、黒川淳史、岸本武流とか、若くてうまい選手がそろっていて、面白いようにパスが回って楽しかったです。プレーに関しては、分析コーチに映像を見ながら教えてもらったのが、すごく役に立ちました。守備の意識が芽生えたし、場面ごとに(相手のパス)コースの消し方などを細かく教えてもらいました。

――キャリアハイの4得点も記録しています。
「初得点は山口戦。しっかり覚えています。マッチアップしたミユくん(三幸秀稔)のくさびのパスをオレがカットして、パス交換で前に出て決めたので、嫌味で言うと、ミユくんのおかげ()2点目は、讃岐戦。キャリア史上最もきれいに決まりました。左足のシュートフェイントで一人かわして右足。でも、オレの得点は、全部ペナルティエリア内から。外から決められたら、もっと怖い選手になれると当時から思っていて、18年のホーム最終戦の岐阜戦で、これまでで一番良いミドルシュートを打ったんですけど、GKがちょっと触ってポストにはじかれました。学生のころからショートパスのつなぎ役で、あまりシュートを打って来ませんでした。強いキックとか足を速く振るキックも練習しておけば良かったと思っていて、最近は自主練習で慎くん(金澤コーチ)にロングキックの練習を付き合ってもらったり、シュート練習をしたりしています」

 

一握りの存在になるために

――翌19年、大宮に戻ってからはコンスタントに試合出場を重ねていますが、どんなことが印象に残っていますか。
「大宮での初ゴールはうれしかったですね。19年のアウェイの山口戦です。くさびのパスを入れて、ペナルティエリア内まで走ってワンタッチで決めました。ほかに強く覚えているのは、初先発だった愛媛戦で自分がボールを奪われて失点したこと。明らかに自分のミス。振り返るときに覚えているのは、大体、初出場、初先発、初得点、初やらかし()。あとは、岐阜戦。アディショナルタイムにアシストして逆転で勝ったんですけど、あんなに感動的な試合は初めてだったと思います。今季の磐田戦もそうだけど、劇的な展開の試合は、やっぱり印象に残ります」

――厳しい残留争いだった昨季、ホーム山形戦で89分に決めた同点弾も劇的でした。
「あのとき、相馬さんに『一皮むけたな』と言われましたけど、一皮むけたのかな?()。あれは(大山)啓輔くんのラストパスがうまくて、オレはいつも通りにペナルティエリア内に走っていっただけ。オレの得点は、ほとんど同じ形。ミドルは1回か2回で、それも相手に当たったとか、GKがミスしたとか。そのうち、ミドルからガツンと決めたいです」

――プロ9年目の今季で通算200試合出場を達成しました。この先の目標は?
「プロで10年以上、かつ30歳以上でプレーして、300試合以上出場できたら、めっちゃうれしいですね。幸せだなと思います。そんなことができるのは、一握りの選手だけ。同世代の年代別日本代表だった選手も、もう半分も(プロの世界に)残っていないんじゃないかと思います。こないだ原崎コーチが試合前にみんなの前で『毎週、すごく喜んだり、落ち込んだりする。そんなことは大人になったら普通ない。好きなサッカーでこんな1週間を過ごすなんて幸せなことだ』と言っていたんですけど、それからは1試合、1試合を噛み締めるようになりました。年齢なのかな。今まで響かないタイプだったんですけど、人の話が響くようになりました()
大宮区生まれで大宮にある唯一のプロチームに小学生からお世話になって、地元で試合をさせてもらっているのは、すごく幸せです。でも、大宮に帰って来てからの4年間は、苦しいシーズンが続いています。プロになった当時のような大宮に戻したいです。以前は負けた後の気持ちの切り替えは早いほうでしたけど、今年は負けるとずっと悔しいし、勝つとホッとします。自分が引っ張らなきゃいけないし、勝たせたい。そのへんは、同期で強い気持ちが表に出ている浦上仁騎に感化されているところもあります。仁騎も、このクラブを勝たせたい、上に上げたいって絶対に思っているから。300試合はJ1で、先発で出たいですね。お世話になったクラブをJ1に上げて、そこで自分が試合に出ることが理想です」


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