クラブ創立25周年記念 OB選手インタビュー
荒谷弘樹(大宮U18GKコーチ)×江角浩司(大宮U15/U12GKコーチ)

クラブ創立25周年を記念して、大宮アルディージャでプレーしたOBたちにインタビューする本企画。第3回は1999~08年に選手として所属し、引退後に大宮で指導者として活躍する荒谷弘樹 U18GKコーチ(左)と、06~14年に選手として所属し、同じく引退後にアカデミーの指導者となった江角浩司 U15/U12GKコーチに現役時代の話を聞きました。

聞き手=戸塚 啓

“特別”なクラブで競い合った二人のGK


出会ったときのお互いの印象は?

――お二人は06年に初めてチームメートになりますが、それ以前から接点はあったのでしょうか。
荒谷「大宮で初めて知り合ったと思います。エズはすごく真面目な好青年という第一印象でした」
江角「アラさんは身長が高くて、迫力というかすごく雰囲気があるGKという印象でした。僕が大宮へ移籍する前年の05年に、大分トリニータで対戦しまして。 試合前のアップをちらっと見たときに、クロスボールをキャッチするポイントがクロスバーよりはるか高いところで、『ものすごい大きいなあ』と思って。そんなに僕と変わらないかもしれないですけど、その印象がいまでも頭の中にはっきりと残っています」

――江角さんも十分に大きいですが(苦笑)。
江角「そうなんですけど、客観的に見たときのスケールの大きさを感じました」

 

二人のメモリアルゲーム

――ご自身にとって、忘れられない試合を聞かせてください。
荒谷「すぐに言えます。僕はやっぱり05年のガンバ大阪との開幕戦ですね。結果とか自分のプレーよりも、J1でプレーするのが初めてだったので。プロ入りから時間はかかりましたけど、J1でプレーできたことが一番印象に残っています」

――アウェイの万博で終盤に2点奪ってクリーンシートという展開は、大宮らしさが存分に出ましたね。
荒谷「個人的な内容はあまり良くなかったのですが、結果的に勝てた試合で、それも印象に残っている理由です」

――94年のプロ入りから12年目でのJ1初出場で、感慨もひとしおだったのでしょうね。
荒谷「大宮の関係者の方々も含めて、それぞれに思いはあったと思うんですけど、個人的にはそういう思いがありますね」
江角「自分は07年のさいたまダービー(第24節)です。森田(浩史)さんが決めて1-0で勝った試合です。自分は06年に移籍してから14試合公式戦に使っていただいていて、それまで1試合も勝ってなかった。14試合ずっと勝てなかったんですよ。で、やっと勝った試合がダービーだったんです」

――それは気づきませんでした。
江角「浦和さんは前年にJ1と天皇杯を獲って、07年はACLも優勝するという時期で、お客さんもすごく入って。自分はその直前に娘が生まれていて。そういうのもありつつ、14試合勝ってなくてやっと勝てたという。チームは本当に苦しい状況だったので、やっとつかんだ一つの喜びという部分で、非常に印象に残っています」 

――荒谷さんにとってのさいたまダービーは、古巣対決でもありますね。
荒谷「勝ったことは一度しかなくて、それも05年です。前半を2-1で折り返して逃げ切った試合なんですけれど、 その試合も記憶に残っています」

――荒谷さんにとってのさいたまダービーは、特別なものがありますか?
荒谷「そうですね。レッズは敵とかライバルというよりも、プロになるきっかけを作ってくれたチームで、選手にもスタッフにも、フロントにもお世話になった方がたくさんいます。そういう方々に成長した姿を見せられれば、恩返しできれば、という思いでプレーしていました」

――まだまだ、印象的な試合が出てきそうでしょうか。
荒谷「僕はどうしても05年に思い入れが強くて、G大阪を相手にJ1残留を決めた試合も。大宮サッカー場の最後の試合、改修工事に入る前の最後の試合でした。優勝争いをしているG大阪に対して、チームとしても個人としても良いパフォーマンスが出せた。あの試合はけっこう自分が噛み合った試合でした」

――後半終了直前の久永辰徳選手のゴールで、1-0で勝った試合ですね。J1を初制覇するG大阪からシーズンダブルは痛快でした。
荒谷「そうなんですよね。そこはすごく、いろいろなメモリアルが重なって。J1残留を決めた試合でもありましたし。04年にJ1昇格を決めたホームの水戸ホーリーホック戦も印象に残っています」

――江角さんも、ぜひ挙げてください。
江角「たくさんあります。さっきのさいたまダービーの次ですと、08年の開幕戦ですかね。シーズン開幕戦に初めて出ることができたんです。 06年に大宮へ移籍してきて、08年のシーズン前はアラさんたちとポジション争いをして、すごく充実した緊張感の中でプレシーズンからシーズンに入って。開幕戦はアルビレックス新潟にある程度主導権をとって、2-0で勝つことができて。自分のパフォーマンスも、ある程度できていたかなという試合でした」

――もう一つ挙げますと?
江角「07年6月の横浜F・マリノス戦ですね。公式戦の途中出場は前所属の大分トリニータで2回あって、大宮ではこれが初めてでした。後半開始早々にアラさんがケガして、急きょ出場したんです。冷静に入れたかと言うと、頭が真っ白でした。コーチだった渋谷(洋樹)さんからセットプレーのオーガナイズを説明されているんですけど、『はい、はい』と返事をしつつも全く頭に入ってなかったです」

――ええっ、それは……。ハーフタイムで体を動かしていたのでしょうが、それにしても突然の交代だったからでしょうか。
江角「ハーフタイムに動かして、ベンチへ戻ったらすぐいくぞ、と。ただ、緊張はあったんですけど、結果的に、ポジティブにパフォーマンスに影響したのかなと。なんとか0-0のスコアレスで終われました。無失点で抑える役割は果たせたというか」

 

GKという特殊なポジションの心構え

――07年シーズンはそのまま江角さんが正GKとなり、08年は全34試合にフル出場しました。荒谷さんは全試合控えでした。
荒谷「07年は負傷交代したF・マリノス戦からうまく復帰できなかったというか、ちょっと治っても多少違和感があったりで。08年はある程度良い状況になって、キャンプを含めて、自分では最後のチャンスだと思いながらやっていましたが、なかなか出れなかったですね。実際、大宮では最後のシーズンになりました」

――控えGKは本当にいつ出番が来るか分からなくて、フィールドプレイヤーのように途中出場しながらコンディションを保っていくこともかなわない。そういう中でシーズンを過ごしていくのは、フィジカルだけでなくメンタルもすごく難しいところがあるのでは?
荒谷「エズもそうかもしれないですけど、僕は若いときにあまり公式戦に絡めなかった選手なので、そこである程度忍耐力を鍛えられた部分があったかもしれません。それから、2番手のGKの役割は、1番手に良い意味でのプレッシャーをかけられる存在でなきゃいけないなという」

――江角さんは? サブのときの準備などは?
江角「大分がJ1へ昇格した初年度の03年のことですが、始動時は3番手だったんですけど、先輩二人がケガでカップ戦の初戦に途中出場して、そのあとのリーグ戦の開幕戦も先発だったんです。何が起こるかわからない。つまりは準備がすべて。それは体もそうだし、メンタリティもそうだなと。で、開幕節から2試合出て、先輩がケガから復帰したらまた3番手になってしまいました。チャンスが来てもモノにできなかったのはなぜかと言うと、メンタリティを含めて足りなかったとそのときに気づいて。サブで入るときはいつ出番が来てもいいように、いかに整えるかっていうのは、そういう経験から学んでいったと思います。あとは、アラさんも言ったように、1番手のGKに対してのプレッシャーは大事かな。2番手の自分がいいパフォーマンスすればプレッシャーになるだろうし、緊張感にもなるだろうし、それがお互いの成長につながっていくと思います」

――一お二人はのちに飛躍していく若い選手ともチームメートでした。荒谷さんは川島永嗣選手と、江角さんは西川周作選手と。
荒谷「エイジに関しては表現が難しいですけど、度肝を抜かれたというか、簡単に言えば学ぶことが多かったなと。目標設定がしっかりとあり、それを実行していく。プロで長くやってきて、なかなか試合に出られていない僕に対しても、すごくリスペクトをしながらアドバイスもくれて、それが的を射ていたりして。一緒にやったのは3年でしたか……。すごく刺激をもらって、後の自分の結果につながっていったかなと感じています」 
江角「西川選手はユース出身で、高校3年のときには2種登録で一緒に練習していました。能力は非常に高い選手で、本当にGKを楽しんでいました。明るいキャラクターですし。結果的にポジションを取られたというか、05年はGKが4人いたんですが、彼がシーズン途中からポジションを取りました。若いのにそういうプレッシャーに動じないというか、物怖じしないというか。プレッシャーをポジティブなエネルギーに変えてるな、というのは感じました」

 

“特別”なクラブへの思い

――荒谷さんは5つのクラブで通算18年プレーしましたが、在籍年数が一番長いのは大宮です。ご自身にとって特別なクラブですか?
荒谷「はい。指導者も含めて、一番長く在籍させていただいていますので。98年に浦和から旧JFLの川崎フロンターレへレンタルで移籍したんですが、オフに浦和も川崎Fも契約を結ばないとなったときに、大宮に練習参加させていただいて、拾ってもらった立場なんです。本当に恩を感じていますし、入団してからもなかなか試合に絡めなくても評価していただいて、なんとかプレーができる環境を与え続けてもらいました。しかもJ1でプレーできて、36歳までプレーできたのは、大宮での経験があったからこそです」

――江角さんも複数のクラブでプレーしていますが、大宮は特別ですか。
江角「そうですね、最も長く在籍させてもらったクラブですし。プロ入り前の01年にオーバートレーニング症候群だったときに、ヴィッセルさんに練習参加したことがあるんです。その時ちょうど、大宮を引退した白井淳さんが、コーチの勉強のために神戸にいたんですね。そこで初めてお会いして、『頑張れよ』と言われて。それから大分に加入して3年目か4年目に、グアムキャンプで大宮と一緒になって、白井さんに再会できました。『元気か、頑張ってるな』みたいな感じで声かけてもらって、その年のオフ大宮から話をいただいて、移籍してきたときは白井さんがGKコーチでした。何かこう、縁を感じていました」

――特別なクラブで指導者と仕事をしていることについての思いを、ぜひ聞かせてください。
荒谷「たぶんエズも一緒だと思うんですけど、やっぱりトップチームに良い選手を送り出したいですね。GKは加藤有輝選手を最後に送り込めていないんですが、U18からトップに上がってすぐに試合に出られるようなGKの輩出は難しい、という現状の悩みもありつつ、いつも試行錯誤しながら、なんとかトップに送り込めるようにと意識してやっています。もっと言えば、将来的により高いレベルでプレーできる選手を育成したいですね」 
江角「アラさんと同じです。アカデミーの選手がトップで試合に出続けて、チームを強くする、勝たせるところを目標に。そこから代表に選ばれたり、海外で活躍するような選手の育成を目指しています。ホントに難しいかもしれないですけど、僕はできると思っています」

――最後に25周年の節目に寄せて、一言伺いたいのですが。
江角「時が経つのって、本当に早いですね。自分が選手として在籍させていただいたときはJ1にいて、離れる前の14年にJ2に降格してしまったっていうところで、悔しさとかいろんな思いがあってクラブを去ることになりました。いままたこうやって戻ってくることができて、トップが苦しんでいるのはすごく複雑というか、悔しいというか。アカデミーの指導者として自分ができることは、良い選手を送り出すことだと、いつも思いながらやっています。本当にすばらしい環境にあって、J2にいるクラブではないとは思うので」
荒谷「同じような内容になっちゃうんですけれど、トップチームがいま本当に苦しい状況で、自分も含めたアカデミーのスタッフも何かできることはないかと考えるのですが、まずはU18の指導者でやれることをしっかりとやるしかない。継続してやっていくしかない、と思っています」

――どちらが先にトップチームのGKコーチになるのか、楽しみにしております。
江角「J1ではGKコーチの二人体制も増えてきていますよ」

――そうしたら、二人同時ということもあるかもしれませんね。今日はどうもありがとうございました。


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

FOLLOW US