【INSIDE】 茂木力也「結果が出ないからあきらめるのではなく、続けることで結果が出る」

選手の内面に迫ったロングインタビュー企画『INSIDE』。第2回は加入から2シーズン目を迎えた茂木力也選手に、これまでのキャリア、そして厳しい戦いが続く今シーズンの戦いについて話を聞きました。

聞き手=戸塚 啓

「結果が出ないからあきらめるのではなく、続けることで結果が出る」


CBとしてU-17W杯に出場

──じっくりとお話を聞ける機会をいただけましたので、まずはサッカーをはじめたきっかけから教えてください。
「父が会社の草サッカーチームに入っていたので、試合を観に行ったんです。そのチームに少年団のコーチをやっている人がいて、その少年団に入ることになりました。少年団に入る前も、父のチームで一緒にボールを蹴らせてもらったりしていたので、サッカーには親しんでいました」

──その当時は何歳ですか?
「小学1年生で地元の小学校のチームに入ったんですが、1年生だと試合はほぼないので、試合のある江南南サッカースポーツ少年団に入れさせてもらいました」

──ポジションは?
「CBとかボランチですね。当時は背が高かったので、後ろのほうのポジションが多かったです」

──好きな選手は?
「デイビッド・ベッカムが好きでした。キックを真似していましたね。好きなチームは特になかったです。週末は自分たちの試合があったので、あまりJリーグの試合は観ていないですね。火曜、水曜、木曜日は学校が終わったあとに練習をして、土曜、日曜は試合、というようなスケジュールでしたので」

──将来の夢はサッカー選手でしたか?
「はい。いま思うと……当たり前のようにサッカーをやらせてもらっていたのですが、僕は深谷に住んでいて、チームは熊谷だったので、毎日30分ぐらい両親に送り迎えをしてもらっていました。いま振り返ると、ホントにありがたいですよね」

──自分はプロになれるかもしれない、と思ったのはいつごろでしょう?
「高校2年生ぐらいでしょうか。浦和のユースに入って、アンダー世代の代表に呼ばれるようになって、トップチームの練習に参加させてもらったりしていたので」

──13年のU-17W杯に出場していますね。
「中学生までは県選抜ぐらいまでで、高校生になっていきなりアンダー世代の代表に呼ばれるようになったので、『どこで観ていてくれたんだろう』という感じでした。そのときは吉武博文さんが監督で、ミーティングもずいぶん長くやって、映像もたくさん観せてもらって、こういうサッカーをする、と。イチからサッカーの勉強をさせてもらったなあ、という感じがします。チームメートはみんなうまかったですし、合宿では午前、午後と練習して夜はミーティングで、一日中サッカーのことを考えていました」

──サッカー選手として土台作りの時間になりましたか?
「そうですね、中学生ぐらいまでは感覚でやっていたものが、自分の立ち位置、ポジション、どこを見る、とかいうのを学びながらサッカーをするようになりました」

──U-17W杯では3試合に出場し、チームのベスト16入りに貢献しました。
「チームとしてこういうサッカーをするというものを、理解して臨むことができていました。CBだったんですが身長はそんなに大きくないし、一緒に組んでいたCBもいま東京Vにいる宮原選手で、二人とも身長は大きくない。足もものすごく速いわけじゃない。それでも大きいFW、早いFWと対抗するということで、ラインを高くしたりするなどチームとして考えて、予測することも身に付きました」

──ともに世界で戦った当時のチームメートは、その後も意識するものですか?
「そうですね。活躍している選手ばかりですし、負けられないなという思いと、悔しさがありますね。あのときは一緒にやったけど、彼らとはこれだけ差がついちゃったな、と思ったりすることもあります。自分はいまプロ9年目ですけど、まだまだやらなきゃいけないな、と思わされます」

大きな壁に阻まれた1年目

──プロ9年目ということですが、ここまでの時間は長かったですか、あっという間ですか
「いやあ、あっという間ですね。愛媛、山形といろいろなところへ行っていますけど、早かったなあと」

──プロのスタートは浦和でした。
「ユースでトップの選手のプレーを見ていて、監督がミシャさん(ミハイロ・ペトロヴィッチ)で、チームは毎年J1で上位に食い込んでいて、ACLも出ていて。そのチームの一員になれてすごくうれしい気持ちがあり、かなりのレベルの差を感じました。僕がトップに昇格したころの浦和は、リーグ戦でほぼ負けないし、メンバーも変わらないし、試合に出るチャンスはなかなかつかめなかったですね。紅白戦をほぼ毎日やるんですがそのメンバーに入れず、シュート練習とか素走りをかなりやった記憶があります。厳しい1年目でしたけど……」

──プロとしてやっていく土台作りになった?
「まさにそういう感じです。誰かがケガをして紅白戦に入ったらトップレベルを肌で感じましたし、(興梠)慎三さんとかをマークしていたし、その感覚を持ちながら2年目にJ2の愛媛FCへ行くと、相手をマークしていても少し余裕があったというか。慎三さんと戦っていたんだから大丈夫だ、という自信もありつつで」

──試合に絡めない自分を、どのように理解していましたか?
「さっきも言ったように、1年目に関しては紅白戦に絡めないのも当たり前だ、というぐらいの実力差を感じていました。まだまだ足りないなと、かなり感じました」

──同時に、「プロとはこういうものだ」というものを、先輩から学ぶこともできていたのでは? 12年の浦和には、阿部勇樹さんのような経験と実績を兼ね備えた選手がいました。
「阿部さんは練習に最初に来て、クラブハウスから帰るのは一番最後でした。言葉で引っ張るよりも背中で語るタイプで、両足蹴ることができて、どこのポジションでもすごくレベルの高いプレーができる。長身はないけれど、ヘディングが強くて。ああいう選手になりたいですね。自分はズバ抜け抜けたストロングポイントはないので、すべての能力を高いレベルにしないと生き残っていけません。阿部さんをずっと目標にしてきたからこそ、いまの自分があります」

──そうでしたか。なるほど、プレースタイルが重なります。
「ずっと憧れてきました。まだまだ足元にも及ばないので、もっとレベルアップしないといけないです。つねに目標としています」

木山監督の下で経験を積む

──先ほど少し触れていましたが、プロ2年目はJ2の愛媛FCへ期限付き移籍します。
「1年目が厳しい状況だったので、強化部から『レンタルで経験を積む希望はあるか』と聞かれまして。愛媛から話があるとのことだったので、すぐに行きますと返事しました」

──浦和から愛媛へ期限付き移籍する流れは、それ以前からありましたね。
「埼玉県を離れるのは初めてだったので、最初は不安もありました。でも、良い人たちばかりで何の問題もなく過ごすことができました。浦和では公式戦に1試合も出ていなかったので、愛媛のファン・サポーターにはどうなんだろうと思われたかもしれないですが、監督の木山(隆之)さんが使ってくれまして。19歳から20歳になる時期で試合に使ってもらったのは、自分のサッカー人生にとって大きかったですし、守備のことなどをたくさん教えてもらいました」

──翌年は木山監督が愛媛から山形へ行き、茂木選手も木山さんに誘われて山形へ、ということですね。
「愛媛で試合に使ってもらいましたが、浦和へ帰ってすぐに試合に出られるかと考えると、そうではない、まだそのレベルではない、と判断しました。なので、レンタルで続けたいと浦和と話をして、3年目は山形でプレーさせてもらいました、愛媛でも山形でも、試合を重ねるごとに、場面、場面での経験を積んでいきました。失敗することはたくさんありましたけど、DFはそういう経験をしないと分からないこともあるので、ミスをしても我慢強く使い続けてくれた木山さんには感謝しかありません」

──木山さんは可能性を感じていたのでしょうね。
「ホントにありがたかったですね。おかげで成長できましたし、活躍している姿をお見せしたい、という思いがいまでもあります。お世話になった指導者の方に恩返しをしたい、という気持ちはいつもありますね」

──プロ4年目にして山形2年目の18年、シーズン途中で浦和に呼び戻されます。
「試合に出る可能性はあるなと、自分でも感じるぐらいのプレーはできていました。そのときの浦和はオリベイラさんが監督で、DFにケガ人がたくさん出たり、遠藤航くんが海外移籍したりで、人数が少なくなるタイミングで呼び戻されました。練習では紅白戦に必ず入れていましたし、そこで浦和の選手たちとマッチアップして、やっぱりすごいなと感じた部分と、1年目とは違う対応ができると感じる部分もありました。愛媛と山形で経験してきたことは、やっぱり大きなと感じることができました」

──しかしながら、公式戦に出場する機会は限られたものでした。
「あのメンバーに割り込んでいくには、力が足りなかったといまは思います」

──まだ、足りなかったですか?
「はい。DFだと槙野(智章)さん、マウリシオ、森脇(良太)さん、宇賀神(友弥)さん、岩波(拓也)くん……といった選手がいて」

──どこのポジションにも、代表レベルの選手がいました。
「自分は一つのポジションで勝負するタイプではないので、そうなると試合に絡むのは難しかったのかな、と。いろいろなポジションができるがゆえに、試合に出るのが難しかったのかなと、ちょっと感じます」

──ポリバレントである価値はもちろんありますが、スペシャリストにも大きな価値はあり……そこは難しいですね。
「どのポジションでもスペシャリストがいて、その選手との競争に勝たないと試合には出られません。もっとレベルを上げないといけないと、感じていました」

──19年7月に、再び愛媛へ期限付き移籍します。これは、あちら側からのオファーで?
「愛媛を離れたあとも試合は観ていて、この19年は鳥栖の監督をやっている川井(健太)さんがチームを指揮していて、面白いサッカーをしているなと思っていました。順位はあまり良くなかったのですが、もう一度行って愛媛を助けたいという気持ちがありました」

──おっしゃるとおり、愛媛は面白いサッカーをしていましたね。
「ボールを保持するサッカーを、あらためて川井さんに教わりました。ポジショニングとか、ボールにどう寄るのか、どう離れるのか。ホントに細かいところまで指導してもらいました。頭を使う練習が多かったですね」

──先日発表された日本代表に、愛媛のチームメートだった川村拓夢選手が選ばれましたね。
「19年の彼はあまり試合に出ていなくて、まだちょっと自信なさそうにプレーをしていた印象ですが、能力はすごく感じていました。20年は試合に出るようになって自信を持てたのか、点を取るようになり、自信を持つだけでプレーが変わるんだなあと、拓夢を見ていて思いました」

──彼もポリバレントな選手ですね。
「そうですね。推進力もあって、パンチ力もかなりあります。走れるし。良い選手ですね。清水の神谷優太とか、鳥栖の長沼洋一も一緒でした。J1でやっている選手もいますから、負けてられないですね」

──ベテランの山瀬功治選手もチームメートでした。
「練習も最後までやっていましたし、全体練習が終わったあとに一人で20、30分ランニングしていました。一緒に走らせてもらっていたこともありますが、そのランニングが大事なんだよと話していました。食事もすごく気を遣っていましたし。そこまでやらないと長く続けるのは難しいんだな、これだけ長くプロでできるのには理由があるんだな、と感じました」

──茂木選手も食事や休養には気をつけていますか?
「食事は奥さんにある程度は任せています。休養は自分でケアできるところは心がけていて、練習後にアイスバスに入ったりします。トレーナーにマッサージしてもらうとかは、あまりやらないタイプなんです」

──疲労が溜まらない、あるいは抜けやすいから?
「溜まらないのかな……ケガもしないですし」

──そうですね、長期離脱するようなケガがないですね。
「プロに入ってから大きなケガはしていません。練習を休んだことも、ほとんどありません。それこそ小学生からほとんどないですね。小学4年生のときに、相手と足がからまって骨折したぐらいですかねえ。秘訣は……親に感謝ですね。疲れますけど、一晩寝たらけっこう疲労は抜けます」

──いまのところ、特別なことはしていないと?
「ない、ですね。体は昔から強いです。ただ、筋トレとかは自分で、かなりやっています」

──ケガをしない、ケガに強いところも、阿部さんに重なりますね。
「阿部さんも、どんな試合でも出ている印象ですね」

再び故郷でプレーする機会を得る

──シーズン途中に加入した19年、20年、21年と、愛媛では客観的に見て評価される結果を残しました。そして、大宮からオファーが届くのですね。浦和でプロ入りしたということで、ちょっとこう、ためらうようなところはなかったのでしょうか。
「自分のサッカー人生を考えると、浦和でプロになったから断る、といったような考えはなかったですね」

──大宮というクラブの印象を聞かせてください。
「愛媛や山形でプレーをさせてもらいましたけど、チームの規模とか練習環境を比較したら抜群に整っているし、素晴らしい環境でプレーできます。スタジアムの雰囲気も最高ですし。愛媛は僕が離れたあとにクラブハウスができたみたいですが、それ以前は三つぐらいの練習場を転々としていました。最初に移籍したシーズンは、ほとんど人工芝で練習をしていました。それを経験しているので、大宮の素晴らしい環境でできることは当たり前じゃないんだと感じます。この環境でできることに慣れてはいけない、つねに感謝しないといけない、と思っています。もっともっとやらなきゃいけないな、というのはつねに思っています」

──埼玉県出身の茂木選手にとって、NACK5スタジアム大宮は特別な場所ですか?
「中学校の県大会決勝でピッチに立ちました。昔から良い思い出があります。大宮の一員となってからは、コロナの影響で応援の制限がありましたが、あれだけのファン・サポーターが入ってくれて、すごく良い雰囲気を作ってもらいました。声出し応援が解禁になってからは、応援を間近で聴くことができて、たかぶるものがかなりありますね」

──声出し応援が可能になって、声援を受けることの喜びをあらためて感じていますか?
「いやもう、最高ですね。ファン・サポーターのみなさんが応援してくれることで、選手は『あの人たちのためにやらなきゃいけない、勝たなきゃいけない』と思うものです。だからこそ、いまこうやって勝てていない状況が……みなさんに悔しい思いをたくさんさせてしまって、すごく申し訳ないですし、歯痒い。毎試合これだけ多くのみなさんがスタジアムに足を運んでくださっているので、必ず勝ちを届けないといけないと強く感じています。応援してくれている人たちに、笑顔で帰ってもらうのが僕たちの仕事です。頑張っていない選手はいないですけれど、もっと勝つために何かをしなきゃいけないのかなと思っています」

──茂木選手自身も、何かを変えなければいけないと感じていますか?
「いまこうして勝てていない時期も、自分に矢印を向けています。チームがいきなり変わるのは難しいと思うので、まずは一人ひとりが変わるほうが先だと思うんです。一人ひとりが変わっていけば、チームは良い方向へ進んでいくと思います。僕はまず自分に矢印を向けて、何ができるのか、何をするべきなのかというところを、トレーニングから意識しています」

──これだけ勝てないというのも、なかなか経験がないでしょう。どうやって抜け出せばいいのか、答えを見つけるのは簡単でありません。
「こうやって勝てないと自信を失って、それがプレーにも出てしまいます。どうやったら抜け出せるのかを考えますし、それが迷いにつながったりしているのかもと、最近は思います。逆に勝てているときは自信があるし、良いプレーが続く。もっと大胆にと言うか、ミスを恐れずにプレーしてもいいのでしょう」

──そうなんですよね。勝っていないときこそ、選手一人ひとりが自分の特長を出すことを心掛けるべきでしょう。
「調子が良いチームだってミスはするので、ミスはみんなでカバーすればいい。勝てていた時期もミスはしていて、それでもミスを恐れずに前へ、前へという姿勢が出ていたと思うんです。それがいまは、後ろ向きというか消極的になっているところがあるので。自信を持つのは難しいかもしれないけれど、自信を持って挑んでくる相手に、自信を失っている状態で向かうのは難しいですから。だからこそ、自信を持てるように、練習からハードワークしています。練習でできないことは、試合ではできないですので。いまは良い練習ができているので、これを続けていけばチームは必ず良い方向へ向かっていくと、僕自身は実感しています」

──それは良いですね。
「これを続けることが大事です。それでも勝てないことがあるかもしれないけれど、それでも続けていかないと意味がない。筋トレとかもそうですけど、一日とか二日やったぐらいでは体は変わらないですよね。一カ月、二カ月と続けていくからこそ、自分の能力が上がっていく。サッカーも同じでしょう。結果が出ないからあきらめるのではなく、続けることで結果が出ると思うんです」

──まさにそのとおりですね。
「この苦しい状況を乗り越えることができたら、ホントに自信につながります。どう乗り越えるのかが重要で、苦しい思いをして、積み上げて、乗り越えるのか。ただ運良く乗り越えられたのか。そこには大きな違いがある。いまは積み上げられているので、これを続けていけば、必ず先が見えてくると思います」

──原崎さんが監督に就任して、当たり前ですが雰囲気が変わりましたね。
「はい、監督が代わってまたイチからの競争になりますし、僕も含めてみんなの心にもう一つ火が点いたというか、練習から勢いよく、声も自然と出ています。この練習の雰囲気を続けることが大事ですし、続けないと戻ってしまうので。原崎さんも『結果が出てもやり続けるぞ』と言っていますし、それはホントにそのとおりだと思います」

──練習は活気がありますね。
「この練習を続けていけば、試合でも自信を持ってプレーできると思います。試合でもミスをするのが怖いとか、ミスして失点したらどうしようといった考えではなく、思い切って自分の特長を出す。そこの自信の持っていきかたとかメンタルは、いま一番大事だと思います。サッカーはメンタルのスポーツだなと、あらためて感じている部分があります」

──なるほど。
「自分の気持ちに余裕があってプレーしているときと、そうではないときでは、やっぱり全然違いますし。余裕がないと、自分でも信じられないようなミスをしたりしますし。ホントに気持ちでこんなにも変わるのかと、感じさせられています」

──苦しいときに攻め上がっていく茂木選手の姿勢は、チームの支えになっていると思います。
「そうですね、自分の良さを出して、迫力を持って前へいく、上がったら戻る。そうやって走れるのは自分の特長なので、それをもっともっと出していけば、流れも良くなっていくと思うんです。僕だけでなくみんなが、自分の特長をどれだけ出せるかが大事で。たとえばドリブルを得意とする選手が、ボールを失わないようにという意識を必要以上に強く持って、しかけないようになったら、その選手がピッチに立つ意味が薄れてしまいます。僕はディフェンスの選手なので、前の選手がどれだけ気持ち良くプレーできるかを考えていますし、ここまで200試合以上出ています。大卒とか高卒1、2年目の選手が自信をなくしてはいけないので、彼らをサポートしていかないといけないです」

──引っ張っていかなければ、という意識は強い?
「最初に愛媛でプレーしたときは山形では、僕がサポートしてもらう立場でした。いまは逆の立場になったので。もちろん、自分本来のプレーをして引っ張ることも大事なので、周りの選手が勇気を持ってプレーできるように。前の選手がしかけて取られても、後ろには俺らがいるから大丈夫だよ、と思えるようにしてあげないといけない」

──茂木選手自身は、どのポジションでプレーしたいというのはありますか?
「こうやって左SBをキャンプからやったのは、これまでなかったことです。これだけ左でやっているので、いまはこのポジションでもっと自分を輝かせたいなというのはあります」

──前監督の相馬直樹さんは、日本代表としてW杯にも出場した左SBでした。要求は高かったのでしょうか?
「高かったかどうかは自分では分かりませんが、僕のプレーを尊重してくれていたと思います。タッチライン際ではなく中へ入るのはダメだ、と言われることはなかったので」

──内側のレーンを使う感覚は、どのように磨いてきたのでしょう。
「愛媛で3バックをやっていたときも、川井さんのサッカーでは相手の間へ入っていくことが多かったんです。そこでかなり、自信を持って入れているのかもしれないですね。あとは、僕が間に入って受けるだけでなく、相手を引きつけて他の選手が空くというのも意識しています。必ずボールを受けたいわけではないんです」

──きわめて現代的なプレーを、きわめてスムーズにやっていますね。
「そういうところもやっていかないと、スペシャリストには勝てない、というのは感じているので。左SBは左利きの選手のほうがスムーズにいくでしょうし、そこに右利きの僕が立っているからこそできることもある、と思っていて。そこは違いを出さないといけないです。自分が出ている意味は何だろう、ということを考えてプレーしなきゃいけない。ここまで試合に出続けているぶん、結果に対する責任を感じていますし、ここを乗り越えなければと思っています。絶対に乗り越えられると思っています。この順位ですから、言われてもしかたがないので、結果で取り戻すしかない。そういう気持ちをみんなが持っていれば大丈夫です」

──ところで、今シーズンは背番号を変えた選手が何人かいましたが、空き番号もある中で茂木選手は昨シーズンと同じ番号を着けています。これはひょっとして……。
「阿部さんが着けていたからです」

──やはりそこでしたか。それでは最後に、ファン・サポーターのみさんのメッセージをお願いします。
「こうやって苦しい状況でもスタジアムに足を運んでくれたり、DAZNで観てくれているみなさんに、少しでも早く勝利を届けないといけない。練習で良いものが積み上げられているので、最後まで諦めない、球際で負けない、勝負どころで戦う姿を、当たり前のようにファン・サポーターのみなさんに届けないといけない。それができて初めて、結果がついてくる。その姿勢を必ず見せたいです。それが1試合、2試合で終わってしまうのではなく、シーズン最後まで持続できるように。ファン・サポーターの皆さんに悔しい思いをさせてしまっているぶん、僕たち選手は取り返すという気持ちを持っていますので、何とか勝点3を届けられるように頑張ります。引き続き応援をよろしくお願いいたします」


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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