クラブ創立25周年記念 OB選手インタビュー
小林大悟(PSGアカデミーJAPAN テクニカルディレクター)

クラブ創立25周年を記念して、大宮アルディージャでプレーしたOBたちにインタビューする本企画。第5回は2006年から2009年まで大宮アルディージャでプレーした、小林大悟さんに話を聞きました。

聞き手=戸塚 啓

「一歩上がるきっかけをもらった3年間だった」


1年目からチームの中心に

──小林大悟さんの多彩なキャリアにおいて、大宮アルディージャでプレーした3年間はどのような意味を持っているのか。そこから、お話を始めたいと思います。
2006年に大宮へ移籍するのですが、それまで所属していた東京ヴェルディがJ2へ降格して、僕自身は残留しようと思っていました。ただ、J1でやることにこだわりたいと考えるようになり、ギリギリで決まりました」

──移籍が発表されたのは、2006年の1月でしたね。
「当時のGMだった佐久間さんに高く評価していただいて、『これはもう行くしかないだろう』という気持ちになっていきました。その1年前にサクさん(桜井直人)がヴェルディから大宮へ移籍していて、自分と同じタイミングでコバくん(小林慶行)が移籍することになったのも、僕にとっては心強かったです。大宮はJ1へ上がって2年目でしたので、自分が入って強くなるように、そのための力になりたい、と思っていました」

──その言葉どおりに、移籍1年目からチームの中心となります。
1年目は三浦俊也さんが監督で、ものすごく自由にやらせてもらいました。しっかりとした守備を軸とするチームでしたが、攻撃は任せたからと。その中でいいパフォーマンスを発揮できて、日本代表にも呼ばれました。充実したシーズンでした」

──三浦監督はオーガナイズされた守備をベースに、攻撃の選手にも明確なタスクを課していましたので、「自由が与えられていた」のは驚きです。
「クラブの関係者や先輩方からは、珍しいことだと言われました。じつは一度、練習に遅刻してしまったことがあるんです。そのときも怒られなくて。三浦さんに『大悟、疲れてるのか?』と聞かれて、『すみません、疲れていて起きられなかったんです』と答えたら、『そうか、ゆっくり休め』という感じで言ってくれまして。先輩方からすれば、なんでお前だけそうなんだと、大ブーイングですよね(苦笑)

 

活躍が認められ“オシムジャパン”の一員に

──まあでも、結果を残していたのは間違いないですので(苦笑)。印象に残っている試合やゴールをあげるとしたら?
「まずは、2006年のジェフとの開幕戦ですね。移籍後最初の試合ということもありましたので、モチベーションがめちゃくちゃ高かったんです。僕のゴールはへなちょこなヘディングシュートだったんですけど、4-2で勝って埼スタが盛り上がったのを覚えています」

──ジェフユナイテッド市原・千葉の監督はイビチャ・オシムさんが監督で、06年のドイツW杯後に日本代表監督となります。そして、大悟さんは日本代表に初選出されます。この開幕戦は、オシムさんにインパクトを与えたのでしょうね。
「ああ、そうかもしれませんね。第3節の新潟戦で、サクさんのゴールをアシストした場面も覚えています。トニーニョからパスを受けて、一人かわしてクロスを上げたのを、サクさんがヘディングで決めて。ヴェルディ時代からのめちゃくちゃうまい大先輩にアシストできたのが、すごくうれしかったですねえ」

──大宮でプレーしたチームメートで、印象に残っている選手をあげると?
「マサさん(斉藤雅人)が社員選手だということを、僕は知らなかったんですね。年上の大先輩なのは分かっていたんですけど、06年のグアムキャンプで同部屋になって、いろいろな話をしている中で『社員選手なんだ』と聞いて。社員証も見せてもらいました。マサさんは『プロになるか、社員という安定を選ぶかだけの違いだよ』と話していましたけど、プロ契約じゃないのにこんなにうまい選手がいるんだと、びっくりしました。マサさんとかコバくんとか、駒澤大学出身の人たちと一緒にやるのは、感覚的に楽しかったですね。マサさんはつねに考えてサッカーをやっていましたし、コバくんはものすごくバランスが取れていて、代表に呼ばれなかったのが不思議なぐらいです。真ん中にいると安心できる選手でした」

──納得です。
「一緒にプレーしてうまかった選手を聞かれたら、サクさんを挙げます。90分を通してパフォーマンスがすごく安定しているかと言えば、そういうふうには見えないかもしれないですけれど、グラウンドで一緒にやっていた選手は、とんでもない選手だと感じていると思います。ファン・サポーターの人からは、分かりにくいかもしれないですけれど」

──当時のチームは、個性豊かな選手がそろっていました。
「キャラクターの濃い人がそろっていました。2006年だと藤本主税さん、吉原宏太さん、久永辰徳さん、冨田大介さん、佐伯直哉さん、西村卓朗さんと、学年が5個上の先輩がたくさんいて。その人たちだけでなく、先輩たちはみんな優しかったですね。ファン・サポーターもホントに温かくて、ピッチ上では自由にやらせてもらって、一歩上がるきっかけをもらった3年間でした」

甘えを捨てるために海外へ

──今お話があったように、2006年から2008年まで大宮でプレーし、20009年1月にノルウェー1部のスタベイクへ移籍しました。
「海外へ行けるタイミングがあったら行かせてくださいという僕の要望を、大宮は最初の段階から認めてくれていたんです。僕はヴェルディからアルディージャへ移籍するタイミングで、初めて代理人をつけました。高卒でプロ入りしてから5年間は、契約交渉も自分でやっていました。プロ3年目の2003年にU-20W杯に出場したあとは、海外へ行きたいとヴェルディのGMに話しました。でも、クラブ側からすれば、高卒で獲った選手を簡単に出すわけにはいかない。代理人もつけていないですし、海外へ行きたいと言っても話は通らないんですよね。『チームでレギュラーを獲って、日本代表になってからでもいいのでは』と言われて、『まあ、そうですよね』となりました」

──すでに2009年シーズン開幕へ向けて始動していたので、スタベイクへの移籍は「すごく迷いました」と話していました。
「大宮移籍1年目に日本代表に入ったタイミングで移籍というのも、なかったわけでもないんです。そこで海外へ出るのもありだったかもしれないですけど、代表に定着してから出ようという考えがありながら、ケガもあって代表には戻れないままで。大宮で3年間プレーして、自分がもう一つ上のレベルへ行くにはここで出ないと、という気持ちがありました。大宮にいればみんなが良くしてくれる。その環境に慣れてしまっていたので、環境を変えるために無理やり出た、というところもありました」

──なるほど、そうだったんですか。
「しかもノルウェーですからね。どこでもいいからヨーロッパの1部リーグへ行って、活躍すれば次の道があるんじゃないかなという思いで飛び出した、という感じです」

──当時はまだ、海外移籍にはハードルがありましたね。いまならJ2の選手でも、オランダやベルギーのクラブからオファーが届きますが。
「今の環境がうらやましいですね。J2からでも行きますもんね。若い選手ならば、そこにまた価値がありますし」

──ノルウェーでプレーした初の日本人選手でしたが、ギリシャと国内復帰を経て移籍したアメリカ・MLSでも、「先駆者」の立場でした。
「日本とヨーロッパでキャリアを積んでからアメリカへ行った選手としては、たぶん僕が初めてですね。アメリカへ行った当時は30歳で、MLS5年、その下の2部リーグで4年やりました。いくつかのチームを渡り歩きましたが、年齢的にチームのことを考える立場だったこともあって、やりがいはありました」

 

ずっと待っていた大宮からのオファー

──どこかのタイミングで、Jリーグに復帰することもできたと思いますが。
「大宮からのオファーを、ずっと待っていました()。これはホントです。代理人には、『大宮からのオファーは絶対に受ける』と伝えていましたので。マサさんがGMにならなかったからです。34年前にコバくんと一緒にマサさんに会って、『なんでGMをやってないんですか』と怒ったんですよ()。現役の最後はアルディージャでやると勝手に思っていたので、マサさんがGMにならなかったばかりに僕は帰って来られない、予定がくるっちゃいました、と訴えました()

──アルディージャのユニフォームを着てNACK5スタジアム大宮のピッチに立つ大悟さんを、もう一度見たかったですが……。2021年限りで現役を退いたわけですが、今後のビジョンを教えてください。
「今はパリ・サン=ジェルマン アカデミーJAPANのテクニカルディレクターをやっています。パリ・サン=ジェルマンという世界的なクラブのメソッドを叩き込まれて、小学生年代から戦術的なことを指導しています。我々はチームとしての活動をしていなくて、学習塾のような立ち位置なんです。週に1回でもいいので、ウチに預けてください、という」

──そのアカデミーで学んだ子どもたちが、将来的に世界へ羽ばたくようなイメージを持っているのでしょうか?
「自分のところからそういう選手を出したい、というのはないんでです。プロになるような選手って、その地域が生み出すんじゃないかな、と。自分の子どものころを思い出しても、弱小チームに所属しながらも市選抜や県選抜に選ばれて、いろいろな人が成長に関わってくれた。子どもの可能性を地域全体でフォローしていた、と思うんです。我々のアカデミーは所沢市からスタートしたので、埼玉県サッカー協会や所沢市サッカー協会の会長さんにもあいさつに行ったんですが、所沢で活動しているクラブの監督さんにも、会っていろいろな話をしたいんです」

──地域が子どもの可能性をフォローする。いいですね。
「僕自身はアカデミーと呼ばれる年代にずっと興味があって、そこにこそ日本は一番力を入れなきゃいけないんじゃないか、と思っていまして。それは、指導者のレベルアップも含めてになります。埼玉県内の指導者の方々がパリ・サン=ジェルマン アカデミーJAPANのメソッドは良いよね、プラスになるよね、と感じていただいて、良い選手が埼玉県からどんどん輩出されたらいいな、と思っています」

──今日はどうもありがとうございました。大悟さんの今後の活躍に期待しています。


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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