【聞きたい放題】アルトゥール シルバ「10代のころのあのロッカールームで、メンタルをとことん鍛えられました」

選手やスタッフにピッチ内外に関わらず様々な質問をしていく本コーナー。今回は、先日の第14節・讃岐戦で自身の今季2ゴール目、クラブのJリーグ通算1200ゴール目を決めるなど、存在感を発揮しているアルトゥール・シルバ選手に話を聞きました。

聞き手=粕川 哲男

「10代のころのあのロッカールームで、メンタルをとことん鍛えられました」


サロンフットボールで頭角を現す

――クラブハウスで昼食を済ませたそうですが、何を食べたんですか?
「サーモン、チキン、サラダ、冷たいうどんと、ご飯です。日本食は何でも食べますけど、海産物の中には苦手なのもあります」

――生まれ育ったブラジル・ロライマ州のボアヴィスタは、どんな街ですか?
「個人的に、ものすごく好きな場所です。自然に恵まれた街で、観光スポットもたくさんあります。ブランコ川で釣りをする人とか。そこまで高い建物はなく一軒家が並んでいる感じで、人口は33万人くらいだったと思います。ブラジルの北部、赤道の北に位置する街なので1年をとおしてかなり熱くて、風も強い。サンパウロから距離がありますけど、飛行機の直行便もあります」

――鉱物が有名だとか。
「金とかダイヤモンドの原石が採れることで知られています。ブラジルの有名な放送局『Globo』のドラマ撮影にも使われました。大富豪エイケ・バチスタが富を築いたのも、ロライマでの鉱物採取が最初なんですよ」

――地元には何歳までいたんですか?
「16歳です」

――サッカーを始めたのは4歳のときだったそうですね。
「本格的に始めたのは4歳ですが、もっと前からボール遊びはしていました。ロライマは大都市と比べてそこまでサッカー熱が高くないので、僕がメインでやっていたのはサロンフットボール(フットサルの前身の一つである室内サッカー)です。14歳までは体育館でボールを蹴っていました。それで15歳のとき、サッカーに転向したんです」

――そうだったんですね。
「ブラジルにも子どもの日、母の日、父の日があるんですけど、そのときには街のみんながサッカーグラウンドに集まって1日大会があるんですね。子どもの部、女子の部、大人の部という感じで。その日は大きなピッチでプレーしましたけど、それくらいですね。兄弟は4人。姉が一人、兄が二人いて、1歳上の兄と一緒に練習してました」

――サロンフットボール時代はどんな選手だったんですか?
「正直に言うと……かなりいい選手でした(笑)。15歳以下のチームに所属していたとき、周りはみんな大人の中、15歳で唯一ロライマ州代表に選ばれて、「フットサルの神」とか「フットサルのペレ」と呼ばれているファルカンがいたブラジル代表とも試合をしました。また、15歳以下の『タッサ・ブラジル』という大会に2回出て1回はMVP、もう1回は得点王になっています」


――全然知りませんでした。
「ブラジルのサッカーはサロンがベースなんです。ロナウジーニョもネイマールもサロン上がりの選手です。どうして彼らがサッカーに転向するかと言うと、サッカー界があまりに巨大すぎる一方、サロンではお金を稼げない現実があるからです。サロン人口の9割は、月給10万円くらいでプレーしているはずです」

――サロン時代は技術が売りの選手だったんですか?
「そうですね。今でこそ体が大きくなりましたが、当時はもっと細くて、アジリティやスピードで勝負するタイプでした。サロンは常に動いてる感じなんですよ。パスを出して動く、パスを出して動く。ポジションはサイドに張るアラだったので、中央に持ち込んで右足でシュートする形が得意でした。そこまで足が速かったとは思いませんけど、今よりもっと俊敏に動いていました」

――現在の持ち味である球際の強さとか運動量、攻守に渡って体を張るようなプレーは、サッカーに転向してから身につけたものなんですか?
「そうです!」

――サッカーへ転向して、すぐうまくいきましたか?
「サロンと並行して、たまにサッカーの練習に顔を出すこともあったので、そこまで大変だったとは思いません。大きな違いは戦術の部分ですが、そこに関してもある程度は慣れていたので、問題ありませんでした」

“サッカーがすべての国”で鍛えられる

――何歳でプロになったんですか?
「17歳です。そこまで時間はかかりませんでした」

――そこから日本に来るまでの7年くらい、どんな成績を残していたんですか?
「プロになったサンジョゼというチームでタイトルは獲っていません。ただ、あの時期は僕にとって、すごく大事な日々だったと思います。ブラジルのロッカールームというのは言い合いの場、要求の場です。自分はまだ17歳で、ある程度想像はしていたんですけど、それを遥かに越えるほど厳しいことを言われ続けました。監督は年齢なんて考えず試合に使うし、監督が代わればまったく別の戦い方を学ばなければならない。そんな中、先輩に多くのことをたたき込まれました。『お願いします』なんて言葉はありません。“サッカーがすべての国”なので限度がないと言うか……ここでは言えないようなことばかりです。十代のころのあのロッカールームで、メンタルをとことん鍛えられました」

――最初に日本への移籍の話を聞いたとき、どう感じましたか?
「驚きをとおり越して、言葉が出ませんでした。代理人からは冗談で『寿司を食べて日本に慣れておけ』なんて言われていたんですけど、それが現実になるなんて。自分の地元では、どこか遠くへ行くときに『日本くらい遠いのか?』という言い方をするんですが、そんなことが自分に起きるなんて、考えてもいませんでした。ただ、迷いはありませんでした。日本はどんなところなのか期待する気持ちが、すぐに沸き上がってきました」

――初めての海外移籍が地球の真裏の日本となって、ご家族の反応は?
「両親としてはうれしさがある反面、ショックもあったみたいです。ただ僕自身は16歳で家を出て以降、国内を転々とするような生活を続けていたので、違う国、違う場所に行くことに対する抵抗はありませんでした」

――日本に対しては、どのようなイメージを持っていましたか?
「正直、何もわかっていませんでした。どういう国か、どういう気候か、どういう食事か、どんな文化か……も。何も把握していない状況で日本に来て、最初は言葉と食事で戸惑う部分もありましたけど、すぐに慣れました」

――去年までプレーした富山の冬は厳しかったんじゃないですか?
「……年始は特に。もう、ひたすら雪(笑)。雪を見たのは、日本に来て初めてでした。東京でも降りましたけど、積もらないじゃないですか。すぐ溶けるし。大雪っていうのは富山で初めて経験しました。体験としては楽しかったし、最初は降っている雪を見てワクワクしましたけど、いざ住んでみて、雪国の人たちの大変さが分かりました」

ケガを乗り越え調子は上向きに

――大宮での生活には慣れましたか?
「東京にいたときから、みんなが住みやすいと言ってるのを知っていました。実際に住み始めても、充実してる街だと感じています。ただ、16歳で家を出てからいろいろな場所に住みましたけど、どこも住みやすかったので、どこが良かったとか、どこが悪かったとかありません。僕自身、新しい場所に慣れたり、グループに溶け込んだりするのが早いので、順応性が高いんだと思います。そのうえで大宮はサッカーでもいい順位につけているし、自分たちが積み上げてきたものを発揮できているので、すごく満足しています」

――最初はケガで苦しい時期もありました。
「あそこまで長いケガは初めてでした。ただ、ケガをしたくてする人はいないと思うし、いつか必ず治ることも分かっていました。どれだけ早くケガを治すか。アスリートとしてそこに注力していたので、重圧は感じていませんでした」

――現在は好調をキープしているチームで出場時間も増えています。自分のどんな特長をチームに反映できていると思いますか?
「ケガをしていた時期は仲間を応援することしかできませんでしたが、今は試合に出て、結果に貢献できてると感じます。それはケガを乗り越えて、監督やチームメートの信頼を得ることができたからです。また、僕自身の哲学として『やる気を失ったときが負け』という思いがあります。常にチームのために何ができるかを考え、自分にできることをする。ピッチの上では最後まで走るとか、球際で競り合うとか。そのような自分にできることを欠かさずやり続けて、チームのために戦うという信念があります。チームのために走る、誰かのために走るところは自分が一番大事にしている部分なので、仲間たちからはそこを評価してもらえてるのかもしれません」

――献身的な姿勢が伝わってきます。
「ズルして休むことは絶対にありません。チームがたくさん勝てるように、どの試合も、自分の持っているものすべてを出し切っています」

――第11節・FC今治戦では加入後初となるすばらしいゴールもありました。
「あの形は、ずっと狙っていました。綺麗に決めることができましたが、あれもトライし続けた結果だと思います。ゴール自体ではなく、やるべきことを諦めずやり続けること、意思を持ち続けることを大事にしたいですし、もっと決められたらと思ってます」



(ゴールシーンは1:25~)

――杉本選手の代わりにゴールパフォーマンスを見せると約束していたそうですね。
「LINEをもらっていました(笑)。前日が僕の誕生日で、何か起きそうではあったんです。神様を信じている自分からすると、あのゴールは起こるべくして起きたもので、(杉本)健勇と約束したパフォーマンスを果たせたのも、日々の信念の結果だと感じています」

――チームメートと喜んでいる姿などを見ても、良い関係が築けているようですね。
「大宮は環境がすばらしいですし、自分たちがここまで結果を残せている要因は、やはり自分たちの絆、自分たちの輪が、しっかりしているからだと思います。ああやって一つのゴールをみんなで喜ぶことで一体感が生まれますし、強いチームとなっていくのに必要な要素ではないかと思います」

――最後に、大宮のファン・サポーターへの思いを聞かせてください。
「ホーム、アウェイにかかわらず、いつもたくさんのファン・サポーターの応援に、すごく感謝しています。選手たちのうれしさも苦しさも、皆さんがいるからこそ。今シーズンの最後に一緒に笑い合えるようにがんばるので、今後も熱い応援よろしくお願いします」





粕川哲男(かすかわ てつお)
1995年に週刊サッカーダイジェスト編集部でアルバイトを始め、2002年まで日本代表などを担当。2002年秋にフリーランスとなり、スポーツ中心のライター兼エディターをしつつ書籍の構成なども務める。2005年から大宮アルディージャのオフィシャルライター。

FOLLOW US