【聞きたい放題】南雄太

選手やスタッフにピッチ内外に関わらず様々な質問をしていく本コーナー。今回は、今季限りでの現役引退となった南雄太選手に、引退を決意した経緯や26年間のプロ生活を振り返ってもらいました。

聞き手=戸塚 啓


信念に従って引退を決意

──前回のインタビューでは、「流れが引退へ行っている」というお話がありました。具体的にはどのタイミングで決意したのでしょうか。
「アキレス腱を切ったのが去年の5月で、同じケガをした人たちに話を聞くと、復帰してから1年かかる、1年経たないと戻ってこないよ、と言われました。今年の1月に復帰したわけですが、半年間ぐらい……6月ぐらいまでは、やっぱり毎日がストレスとの戦いでした。思いどおりにプレーができない、という。リハビリをしていた半年間以上に、グラウンドに立ってやっているほうが正直ツラいな、と感じたこともありました。飛びたくても飛べないとか、取れると思ったボールが取れないとか、そういうジレンマがすごく大きくて」 

──そうだったんですね……。
「というのがある中で、67日の天皇杯2回戦(ジェフユナイテッド市原・千葉戦)17日の(J2リーグ第21)V・ファーレン長崎戦、24日の(J2リーグ第22)いわきFC戦、712日の天皇杯3回戦(セレッソ大阪戦)で使ってもらったんですが、自分の中ではタイミング的に今じゃないというか、今出てもどうだろうという気持ちがありました。そんなことは言っていられないのでやるしかないのですが、やっぱり自分が思ったようなプレーはできず、チャンスも生かせずという感じでした」

──チームは南さんの力を必要としていたけれど、南さん自身はコンディションや感覚がまだ戻っていなかった、ということですね。
「それがようやく夏ぐらいになってから、自分のコンディションやアキレス腱の筋力、プレーの感覚とかが徐々に戻ってきました。来年もう一回やることができれば、ある程度元の姿というか、ケガをする前に戻っていけるのかなというのが、何となくありました。クラブ側がどういう判断をするのかは分かりませんが、7月の終わりから8月ぐらいかな、今の感じなら来年もう1年やれるかな、やってみたいなという気持ちが芽生えてきました。フットボール本部長の原さんとチーム全員が面談する機会があったので、そのときにも『来年どう考えているの』と聞かれて、『一応、やりたいと思っています』と答えたんです」 

──リーグ戦ではいわき戦後もベンチに入っていました。
8月ぐらいからは、今試合に出たらいけるんじゃないかという手ごたえが、自分の中にありました。思うように体が動くようになってきていて、ジャンプの筋力とかは7割、8割ぐらいまで戻ってきている感覚で、今だったらどうかな、というのが自分の中でありました。まあでもなかなか、そうは思ってもチャンスが来るものでもないですし」

──笠原選手がスタメンで、南選手はサブという状況が続いていきました。
924日の徳島ヴォルティス戦の前に、ずっと試合に出ていたカサ(笠原)が体調不良になって、原崎監督に呼ばれたんです。『ずっとサブに入ってもらっていたけど、次の徳島戦は(志村)滉でいきたい』と告げられました。そのときの感情というか、今までだったら矢印が監督とかGKコーチへ向いて、『いや、何でオレじゃないの』という感じで思う自分がいたと思うんですが、それ以上にここで自分にチャンスが来ないのがショックであり、自分自身に少しがっかりしたというか」

──選ばれない自分にがっかりした、ということですか?
「ベテランになるほどチームが苦しいとき、勝てないときに自分が試合に出て、そこでチームが勝ったり、流れが変わったり。そうやって現役生活を延ばしてきたとの自負がありました。スポンサーを連れてくるとか、お客さんを呼べるような選手ではないので、ピッチの上で何ができるか。そこで表現することによって、30代後半ぐらいからは現役を延ばしてきたと感じていました。その自分がこの流れで出られないとしたら、存在意義がないなと率直に思ったんです」

──チームにいるだけでも、十分に存在意義はあると思いますが。
「……それから、自分がある程度調子がいいとか、コンディションがいいと思っているものと、周りの評価がズレていると。それに対してすごく違和感を覚えました。自己評価なので甘くなってしまうとしても、評価基準が下がってしまっているんだろうと、そのときにふと思いました。自分の判断基準が下がっているから、周りの評価と乖離しちゃうのかな、と。横浜FCへ移籍した35歳ぐらいから、試合に出られるレベルじゃなくなったらやめよう、というのはずっと自分の中で決めていました。自分の評価基準に達していないならやめたほうがいい、という感情が沸き上がったんです」

──その判断基準は、決して譲れないものだったんですね……。
GKは特殊なポジションで、いろいろな生き方があります。2番手、3番手、4番手でなかなか試合に絡めなくても、けっこう長くやっている選手がいます。そのすべてに意味があると思います。その上で言うと、僕自身はプロ入りした18歳からずっとピッチに立ってきて、試合で表現する、いいプレーをする、ピッチでチームに貢献する、というのができなくなったら、選手としてやっている意義がないというのが自分なりのこだわりです。先発のGKが代わるタイミングで自分が出られないという事実を受けて、何かズレてきていると強く感じたんです」

──なる、ほど。
「もちろん、サブからも外されたあとの感情なので、やめたいというのも一時的なものかなとも思ったので、去年までコーチをやっていたキタジ(北嶋秀朗)と松本拓也に、ご飯を食べる機会を作ってもらいました。キタジは一個上で拓也は同い年で、彼らとは今でもすごく仲がいいし、いろいろな相談ができる存在なんです」

──彼らは続けたほうがいい、と言ったのでは。
「たぶん彼らは引き留めてくれるだろうなと思っていて、案の定そういう答えが返ってきたんですけど、二人と話したら逆にスッキリしてしまって。そこから10月のアタマぐらいまで考えましたけど、感情に変化がなかったので、じゃあ、やめようと」

──クラブの公式サイト上では、10月15日に発表されました。家族などの近しい人たちには、どのタイミングで?
「キタジと拓也と食事に行ったのが103日で、奥さんに伝えたのは104日だったかな。子どもが騒いでいるとなかなか話ができないのですが、5日の夕方ぐらいにたまたま息子が昼寝をしていて静かだったので、ちょっと話があるんだけど、と切り出しました。『お疲れさま』って言ってくれましたけど、『私は今年で終わりなんじゃないかって思っていた』とも言っていました」

 

ヴェルディ戦でプロデビュー

──さて、ここからは26年のキャリアを振り返りたいのですが、南雄太というGKの足跡は、日本サッカーの成長に重なります。その第一歩が、1997年のワールドユース(現在のU-20ワールドカップ)でした。南さんはチームで唯一の高校3年生でした。
「かなり昔のことで記憶があいまいな部分もありますが、とにかく楽しかったですね。新しいものに触れることへの好奇心、興奮、楽しさがありましたし、代表へ行ってJリーガーと一緒にやることがとてつもない刺激で。ヤナギさん(柳沢敦)がプロ2年目、(中村)俊輔くんがプロ1年でしたが、彼らを始めとしてJリーグで試合に出ている選手がたくさんいました。合宿に呼ばれるたびに、ホントに楽しみでしたね」

──ワールドユースではグループステージ2試合目から出場して、ベスト8入りに貢献しました。
「直前に脱臼をしてしまって、選ばれるかどうか不安だったんですが、ドクターの診断は初戦かその次の試合には間に合うとのことで現地入りしてからもリハビリをしていました。チームは初戦を落として、2戦目に監督からいくぞと言われて。あれこれ考えずにやっていた中で、準々決勝までの4試合に先発しました。自分の中にいろいろな物差しができましたね」

──ワールドユース翌年の98年、静岡学園高校から柏レイソルへ入団します。複数のオファーがあったと聞きましたが、なぜレイソルへ?
「高校1年時の選手権が終わった段階で、『ウチは取りにいく』と言ってくれていました。実際に最初にオファーをくれたのがレイソルでした」 

──Jリーグデビュー戦は覚えていますか?
「覚えていますよ。ヴェルディ戦でした。小学校、中学校とヴェルディのアカデミーで育ったので、すごい巡りあわせを感じました。
試合前の入場で並んだときに、横を見るとGKの菊池新吉さん、カズさん、北澤豪さんとかがいるわけです。小学生のころから憧れて、練習を観に行ったり、サインをもらったりしていた選手たちと、プロのデビュー戦で対戦するなんて、想像もできなかったので。めちゃくちゃうれしかったですね。プロになったんだ、と実感しました」

──デビュー戦の緊張よりも喜びが大きかったんですね。
「試合会場が等々力だったというのも……Jリーグ開幕前の日本リーグ当時から、僕らアカデミーの選手は読売クラブのホーム戦を等々力まで観に行ったりしていましたので。ホントに巡り合わせを感じました。試合ではカズさんとの1対1を止めたんです。そのときはメチャメチャうれしかったですね」

──プロ1年目から定位置をつかみました。
「運が良かったんです。土肥(洋一)さんがいましたので、普通は出られなかったと思うんですが、監督だった西野朗さんが思い切って使ってくれました。チームが若手にシフトチェンジしていく変革の時期だったので」

 

伝説の99年ワールドユース

──プロ1年目を受けて、99年3月に2度目のワールドユースに出場します。
「自分のサッカー人生の中でも、とても大きな出来事でした。世界を近くに感じることができた。初戦のカメルーン戦は負けましたけど、ほとんど試合を支配して、最後の最後にやられたという展開で、これはやれるなって手ごたえを得て。自分たちの試合のあとに、同じグループのイングランド対アメリカ戦を見たんですけど、これなら勝てるなと。そこから2連勝しました」

──快進撃の始まりです。
「俺らやれるじゃん、と感じたのは鮮明に覚えています。当時の日本サッカーはアジアを勝ち抜けるようになってきたけれど、世界で上へいくのはイメージできないところがあったと思うんです。でも、あのときのメンバーはそんな感じじゃなくて、本気で優勝を狙っていました。(小野)伸二よりうまいヤツはいないな、と思ったんです。それはきっと、チームの誰もが感じていたと思いますよ」

──南さんにとっては2度目のワールドユース出場でした。
「前回大会は自分のキャッチミスで負けたんです。準々決勝のガーナ戦で、ミドルシュートをポロッとこぼして入っちゃったんです(結果は1-1の末のPK負け)。それがすごく心に残っていて、何とかしたいとずっと思っていた。ただ、当時のレギュレーションでは2度出ることはできなかったので、アジア予選には出場していないんです。それが急きょ出られるようになったので、僕と永井(雄一郎)くんが選ばれて。メチャメチャうれしかったですね」

──決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦では、PK戦で相手のシュートを止めました。
「代表とは思えないぐらいに一体感のあるチームでした。みんなメチャクチャ仲が良かったし。あの世代は特別でした。ナイジェリアという土地が、そうさせたところもあったかもしれないですが。あの1カ月ぐらいを駆け抜けて、準優勝という成績を残せたので、絆が今でもすごくある感じがします」

──過酷、いや、壮絶な環境を乗り越えての準優勝でした。
「ワールドユース前のブルキナファソ遠征もそうでしたが、ホテルのシャワーが出ないとか、トイレの便座がないとかいうのは当たり前で。飲み水が合わなくて、みんな下痢をしていました。でもそれが、普通になっていくんです。シャワーが泥水でも、『むしろ出るだけましだな』ぐらいに思えました()

──スペインとの決勝戦は、小野伸二選手が出場停止でした。もし彼がいたら、0-4という結果は違ったものに……。
「それはみんな、言ってましたね。まあでも、スペインは強かったです。シャビとかガブリとか有名な選手も出ていましたし、他の国とはちょっとレベルが違いました」

──Jリーグでは2009年までレイソルでプレーします。
J2降格もJ1昇格も経験しました。18歳から30歳までの12年ですから、一番在籍期間が長いクラブです。J2降格は2回で、契約満了になったのも降格が決まったタイミングでした」

熊本で充実の時を過ごす

──レイソルの次の選択肢は、J2のロアッソ熊本でした。
「最後の2年間は菅野(孝憲)にポジションを奪われて、なかなか試合に出られなかったんですね。ちょうど30歳ということで、当時は30代前半で引退する選手も多く、そこから先の自分のキャリアを考えたときに、試合に出られなかったらセカンド(2GK)を何年かやって終わっちゃうなと感じて。菅野と一緒にやっていろいろなことを学んで、自分がうまくなっている感触があったので、ゲームに絡めれば自分のプレーを表現できる、と。試合に出ることをすごく欲していました」

──それにしても、当時の熊本はJ2の上位でもなかっただけに、その決断に驚かされました。
「熊本はすぐにオファーをくれましたし、GMの池谷友良さん、強化部長の飯田正吾さんがレイソルにゆかりのある人たちで、その二人が誘ってくれたというのもあって、熊本へ行こうと。そのあとに他のオファーもあったりしたのですが、自分の中では試合に出るのが一番大事だったので。条件はかなり下がりましたが、そんなことよりも試合に出る。そうじゃないと自分のサッカー人生は、セカンドとかサード(3GK)になって終わっていくだろう、と思ったので」

──その決断は、間違っていなかったですね。
「サッカー人生の中で一番充実していたのは、熊本で過ごした4年間なんじゃないか。そう思えるぐらい公私ともに楽しかったです。いい思い出しかないですね。練習場もクラブハウスもなく、選手も部活みたいにサッカーをやっていて(苦笑)。すごいところに来たなと最初は思いましたけど、そうは言ってもみんなすごく純粋で、一つ火が点けば良くなる、と感じたんです。街も、クラブも、選手も、ポテンシャルはある。何かきっかけがあれば、と」

──移籍1年目の2010年は、高木琢也監督の下で当時のクラブ最高位となる7位に食い込みました。
「サッカーができる喜びがメチャクチャありました。レイソルから契約満了を告げられたとき、このままオファーが来なかったら引退しなきゃいけないんだと思って、すごく不安になったんです。サッカーがやりたくてもできなくなっちゃうことがある、やりたくてもオファーがないとできないという現実をリアルに体験して、サッカーのとらえ方が変わりました。いつ終わるか分からないのだから、11日を悔いなく過ごそうと」

──熊本での4年間は、正GKとしてフル稼働しました。キャプテンも務めました。
08年、09年とくすぶっていた中で、もう一回、南雄太という選手を示すことができました。環境も少しずつ整っていって、それもまた楽しかったですね。チームメートにも恵まれました。キタジがいて、(藤本)主税さんがいて。若手だった堀米勇輝とか橋本拳人とかがレンタルで来て、彼らともサッカーの話をずっとして。サッカーに触れていた時間が長かったですね」

──キタジさん、主税さん、南さんがそろったら、サッカーの話が尽きない感じがします。
「練習が終わってお昼ご飯を食べに行って、ずっと話をしてそのまま同じ店で夜ご飯も食べて帰る、なんてことがありました()。ホリ(堀米)もよく一緒にいましたよ。熊本の4年は濃かったですね」

──その熊本に別れを告げて、14年から横浜FCへ移籍します。
34歳でオファーが来たことが、すごくありがたいと思って。もう一つはマンネリじゃないですけど、熊本の居心地が良すぎちゃって。このままでいいのかなと、感じるようになっていいました。熊本でキャリアを終わることはできそうでしたし、ホントに大好きでしたけれど」

横浜FCで二人のレジェンドに出会う

──その熊本を離れて横浜FCへ移籍したことで、結果的にキャリアがさらに延びることとなります。
「ホントにそうですね。7年半も在籍するとは思わなかったので。自分の中ではカズさん(三浦知良)(中村)俊輔くんと一緒にできたのは、すごく大きかったですね。チーム内で一番年齢が上なのが当たり前になってきていたので、24時間サッカーに費やしているレジェンドが二人もいる。間近で見ていろいろな刺激を受け、勉強になりました。それも、現役が伸びた一つの要因だと思います」

──経験を積んできた南さんから見ても、あの二人はすごかったと?
「いやもう、別格です。サッカーにこれぐらい費やさないとダメなんだな、と思いました。24時間サッカー中心の生活で、自分はまだまだ甘いと思いました。それを感じられたのは大きかったですね。横浜FCというクラブも一度J1に昇格したけれどJ2へ落ちてしまって、そこから昇格できず、J3に落ちそうなときもあった。苦しい時代からクラブが大きくなっていく過程を、肌で感じたのも良かったですね」

──19年には主力と言っていい働きで、J1昇格に力を注ぎました。
「もう一度J1へ戻りたいというのが、レイソルを離れたときからのモチベーションの一つでした。横浜FCへ行った一番の理由も、J1へ昇格したかったからです。40歳で迎えた19年はほぼ試合に出て昇格できたので、あれはうれしかったですね。諦めずにやっていたらこんなことが待っているんだ、と勉強になりました」

──翌年は08年以来となるJ1のピッチに立ちました。
「横浜FCが昇格できたから、また自分の現役が伸びたところもあったでしょうし、それがなければ大宮からオファーが来ることもなかったでしょうし。運に、人に、周りに、恵まれているなと感じます」

──そうかもしれませんが、努力をしない人に幸運は巡ってきません。
「いえいえ、まだまだ努力が足りません()

──思い出の試合を挙げると?
「たくさんあります。Jリーグデビュー戦も、ワールドユースの決勝も。横浜FCJ1昇格を決めた試合は大きいかな。1試合でPKストップを2本決めた16年の京都サンガF.C.戦も覚えています。オウンゴールも(苦笑)。たくさんあり過ぎて、すぐには選べないですね」

──自身4つ目のクラブとなる大宮で、キャリアを閉じることになりました。
「予想もできなかったですが、予想もしないこと、うまくいかないことがたくさんあるから、それを乗り越えたときの喜びは大きい。サッカー人生って、7割から8割ぐらいはうまくいかないことだと思うんですよ。優勝できるのは1チーム、昇格できるのは23チームだけ。その中で、試合に出られる、出られないがある。大変なことのほうが多いです」

──勝っても満足できない試合もあるでしょうし。
「そこが一致しないのも難しさだし、逆に自分がメチャクチャいいときにチームも勝ってとなると、バーンと上がっていく選手もいますね。そういうチャンスをモノにできるのは選手次第で、日ごろからどのぐらいやっていたかが、結局は出る。サッカーの神様は見ていると思います」

──ここまで現役を続けてきたモチベーションとは。
「勝ちたい、うまくなりたい。この二つですね。最後のほうは危機感も。自分のパフォーマンスとかコンディションが落ちちゃうかもしれない、という。ベテランになるほどそこは敏感になりましたし、ケガをしたらもう終わっちゃう、ポジションを取られちゃうというのもあったので。向上心と危機感が、自分のモチベーションを支えてくれた気がします」

引退後は何をする?

──セカンドキャリアについては?
「辞めることだけ決めてしまったので()、まだ何も決まっていないんです。サッカー界に貢献したい気持ちはすごくあります。サッカーの世界にはいたいと思っていますが、指導者をやりたいのかどうかは、今はまだ自分でも分からないですね」

──指導者ライセンスはお持ちで?
「今C級を取得中です。でも、監督とかコーチはできないです。いろいろな監督を見てきましたが、あれほど理不尽というか不条理な仕事はないと思います(苦笑)。自分が選手としてやってきたことをダイレクトに伝えられるのはGKコーチなので、それは一つ考えていますが、じゃま今すぐやりたいのかというとそこも……。GKコーチにもやりかたがあって、Jクラブでやるのか、いろいろなところを巡回するのか、それともパーソナルで指導するのか、とか」

──確かに、GKコーチと言ってもいろいろな立ち位置がありますね。
「クラブの強化とかには興味があります。人をチョイスする側は面白そうだなあとうっすら思っていますが、勉強しなければいけないことがたくさんあるでしょうし、選手と同じでオファーがないとできない仕事なので。解説にも興味はあります。今より少し引いたところから、サッカーを勉強したいです」

──最後に改めて、26年の現役生活、お疲れさまでした。
(川口)能活さんやナラさん(楢﨑正剛)の背中を追いかけて、あの二人が40歳過ぎまでやってくれたのはすごく大きかったですね。さっきも言いましたけど、いろいろなものに恵まれてここまでやることができました。ホントに悔いのないサッカー人生でした」

──南さんが川口さんや楢﨑さんの背中を追いかけたように、南さんの背中を見て頑張っているGKもたくさんいると思います。その意味で、南さんは日本サッカーの歴史を作ってきた選手の一人です。
「自分はただ黙々とやってきただけですが、そういっていただけるのならホントにうれしいことです」


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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