【聞きたい放題】菊地光将「大宮は僕にとって“特別”なクラブ」

選手やスタッフにピッチ内外に関わらず様々な質問をしていく本コーナー。今回は今季限りで現役を退いた菊地光将選手に話を聞きました。

聞き手=戸塚 啓

大宮は僕にとって“特別”なクラブ


菊地光将がスパイクを脱いだ。

2008年に川崎フロンターレでプロキャリアをスタートさせた菊地は、大宮アルディージャとレノファ山口FCで合計15年を過ごし、J1230試合、J2121試合に出場した。大宮には12年から19年まで8シーズン在籍し、J1J2あわせて211試合に出場している。これは、金澤慎、斉藤雅人、奥野誠一郎、トニーニョ、渡部大輔に次いでクラブ6位に相当する。大宮の歴史に、深い足跡を刻んだと言えるだろう。

引退後の率直な思いを聞いた。

憧れのスタジアムで戦った日々

──15年に及ぶ現役生活、本当にお疲れさまでした。
「ありがとうございます。まさかここまで長くできるとは思っていなかったので、よく頑張ったなと思います。いまは引退を決めて、リーグ戦もすべて終わって、ホッとしている気持ちもあります」

──ここまで長く現役を続けられた理由をあげると?
「自分一人の力では、できなかったと思います。プロ入り前もプロ入り後も、ホントに多くの人に出会い、支えられ、助けてもらいました。たくさんの人たちに関わってもらって、気持ちが落ちることもなくできたかなと思います」

──J1、J2合計で350試合以上に出場しています。そのなかで、印象に残っている試合をあげると?
「川崎フロンターレで初めてスタメンで出た試合は、すごく印象に残っています。アウェイの大分トリニータ戦だったのですが」

──プロ1年目の2008年4月12日の試合ですね。
「この試合では、キックオフ前に大分の深谷友基さんの100試合出場のセレモニーがあったんです。『100試合も出られるなんてすごいなあ』と思ったことを覚えています。試合はと言うと、深谷さんは気合が入り過ぎたのか、前半で退場してしまうんですね。数的優位になったことで攻撃的にいくということで、僕はハーフタイムに交代しました。深谷さんとは大宮でチームメイトになったので、『あの試合が初スタメンだったのに、深谷さんが退場になったので前半で交代したんですよ』と言いました()

──大宮でプレーした8シーズンでは?
「たくさんあります。公式戦ではないのですが、移籍後初めてNACK5スタジアム大宮でプレーしたプレシーズンマッチは、すごく覚えています」

──2012年2月の杭州緑城戦ですね。
「埼玉県でサッカーをやってきた選手にとって、NACK5スタジアム大宮は特別です。地元のチームに来て、お客さんも入って、これからここをホームとして戦えるうれしさとかプレッシャーを感じた試合でした」

──メモリアルな試合では?
2015年にJ1復帰とJ2優勝を決めた第41節、雨の大分トリニータ戦はもちろん覚えています。僕は警告を受けてしまって、次の最終戦は出られなくなってしまったので、何としてもこの試合で決めたかった。0-2から3-2に逆転して、NACK5スタジアム大宮でJ2優勝とJ1昇格を決めたのは、すごく印象に残っています」

──2012年から13年にかけては、当時のJ1最多となる21試合連続負けなしのクラブ記録を作りました。
「あのときは、試合をやるのが楽しみでしたね。記録を作った試合が、NACK5スタジアム大宮でのさいたまダービーだったということもあって、それも覚えていますね」

──やはりと言いますか、NACK5スタジアム大宮には、たくさんの思い出が詰まっていますね。
「僕にとっては地元ですし、憧れのスタジアムで、サッカー専用ということもあって、毎試合いつもやりがいを感じていました」

──大宮では背番号2を背負いました。クラブにとって特別な番号の一つを、高校、大学でともにプレーした塚本泰史さんから引き継ぎました。
2番を背負って戦えたのは、僕にとっても誇りです。いまもそうかもしれないですけれど、泰史は現役復帰を目ざしていたので、彼のことを思えば背番号2は空けておいて、自分が着けるというモチベーションになればいいなとも思っていました。フロンターレでは17を着けていて、17だった上田康太が7に変わると聞いて、17にしようという話もあったんです。けれど、泰史と電話で話をしたらぜひ着けてくれと言ってくれて。彼のお兄さんやお母さんとも話をして、2番を着けてほしいと言っていただいたので、決意を持って着けようという気持ちになりました」

──いろいろなストーリーがあったのですね。
「大宮の2番のままで引退できれば、一番良かったんですけどね。それができなかったのは、塚本家のみなさんにも申し訳なかったかなと思います」

相棒との思い出、大宮へのエール

──2番を着けた菊地さんのとなりには、3番の河本裕之さんがいました。クラブの歴史に残るCBのコンビだと思います。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるのは、コウモのおかげです()。彼のおかげで自分も輝けたというか」

──どんな時も安心して見ていられるコンビでした。
「コウモが12年に移籍してきて、最初はSBとかもやっていたんです。初めてCBで組んだのが、僕の記憶が正しければ天皇杯のブラウブリッツ秋田戦で、その試合も前半の早い時間帯にコウモが負傷退場しちゃったんですね。なので、そのケガをするまでの10数分しか一緒にできなかったんですが、そのあとCBでコンビを組んでいくなかで、公式戦で呼吸を合わせる時間もなかったけれど、うまくいったというか。自分が前へ出たらコウモがカバーしてくれるし、コウモがいっても僕もカバーできるというか、すごくいい距離感でできて。その年はJ1に残留することができましたし」

──いろいろな選手とコンビを組んできたけれど、河本さんは特別ですね。
「そうですね。コウモと一緒にできて勉強になりましたし、刺激ももらいました。同い年で個人的にずっと知っていましたし、一緒にできて幸せでした。プライベートでも仲が良かったので、いろいろな思い出があります」

──河本さんは去年限りで現役を退きました。彼よりも長く現役を続ける、といった気持ちもあったのでしょうか?
「それはまったくなかったですね()。コウモが引退することを決めて、すごく寂しかったですし。コウモについていこうと思って、ここで引退を決めました()

──先日の引退セレモニーの際に、大宮を離れるときにファン・サポーターに直接あいさつができなかったのが心残りだった、という話をしていました。
8年も在籍してキャプテンもやらせてもらって、契約満了でクラブを離れることになって、直接あいさつができないままに山口へ来ることになったので、自分のなかでは心残りというか、ファン・サポーターのみなさんに申し訳なかったという気持ちがありました。15年のキャリアの半分以上を大宮で過ごすことができて、8年のほとんどのシーズンでキャプテンをやらせてもらって。ホントに頼りないキャプテンだったと思いますが、選手としても人間としても成長できた時間で、ファン・サポーターのみなさんには毎試合後押しをしてもらいました。なかなか結果が出ない時期もありましたが、みなさんの声援は僕たち選手の力になっていました。いまは大宮の選手ではないですが、これからも大宮の選手たちにすばらしい後押しをしてもらえれば、僕もうれしく思います」

──現在のチームにも、ひと言いただけますか。
「いえいえ、それは僕が言うことじゃないです」

──そう言わずに、ぜひエールをいただけませんか?
「大宮アルディージャというクラブは、J1にいなければいけないと思います。一緒にプレーしたトミ(富山貴光)とかが、すごく頑張っているのはうれしいです。J1へ昇格できるように頑張ってほしい、ということだけですね」

──これからについては?
「まだはっきりとは決まっていません。サッカーには関わっていきたいと思っています」

──将来的にはぜひ、大宮で。
「大宮は僕にとって特別なクラブですし、そういう機会があれば僕も戻りたいと思います。そういう日がもし来たらうれしいですね」

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