クラブ創立25周年記念 OB選手インタビュー
島田裕介(大宮アルディージャU15コーチ) 前編

クラブ創立25周年を記念して、大宮アルディージャでプレーしたOBたちにインタビューする企画がスタート! 第1回は2000年から2005年、2007年と大宮アルディージャでプレーした、島田裕介U15コーチに、前後編の2回にわたって話を聞きました。

聞き手=戸塚 啓

“最強のジョーカー”という葛藤のなかで


別格だった高校時代

──まずは島田さんとアルディージャとの関わりから、お話を進めていきたいと思います。
「クラブ創立25周年の企画の第1回が僕で、大丈夫でしょうか(苦笑)

──もちろんです! クラブの歴史を作った一人ですから。では、アルディージャ入団の経緯から聞かせてください。
「僕は西武台高校でサッカーをやっていまして、大学進学とアルディージャ入団の二つの選択肢がありました。悩んだところはありましたが、高校の守屋先生がプロ入りを勧めてくれたこともあり、入団を決めました」

──試合に絡むのは4年目からですね。
「入った当初は1年目から出られるだろうな、ぐらいに思っていました(苦笑)。自分に自信があったのですが、プロと高校のレベルの違いを痛感しました」

──西武台高校の1年後輩で、大宮でもチームメートになる片岡洋介さんは、高校時代の島田さんは「別格だった」と話しています。
「全国大会には縁がなかったのですが、チームではつねに中心でプレーしていましたし、自然とボールが集まってきて、二人、三人と交わしてシュートを決めたりしていました。試合ではつねにマンツーマンでマークされたりして。違う高校の友人に話を聞くと、『反則をしてでも島田を止めろ』と言われていたそうです」

──そういう選手でしたら、自信満々で入団してもおかしくないでしょうね。
「マンツーマンでこられてもどうにか剥がしたりしていたので、その感覚のままプロに行ったと言いますか……。プロはディフェンスのレベルも全然違いました」


プロデビュー戦は2001年のJ2第44節・ヴァンフォーレ甲府戦。後半から出場し39分間プレーした


菅野監督に認められ先発に定着

──4年目の2003年から、出場機会を増やしていった要因は?
「菅野さんが監督になって、開幕戦にスタメンで使ってもらいました。目指すスタイルが攻撃的だったので、自分の強みを認められて非常に楽しかった印象があります」

──プロのレベルに慣れてきた、というのも?
「自分は体が大きくないし、スピードもフィジカルもそこまで際立っていない。そのなかでどうやって生き残っていくのかを模索していきました。一人でドリブルで勝負していたスタイルから、よりファーストタッチとかパスといった技術にこだわり、生き抜いていく術を見つけていきました」


2003年は25試合出場2得点の戦績を残した

──刺激を受けたチームメートはいましたか?
「年齢は一つ下になりますが、(川島)永嗣ですね。高校のときから国体選抜で一緒にやっていて、1年遅れて大宮に入ってきました。オフには一緒に旅行に行ったりもしました。彼も最初は苦しんで、試合に出られない時期がありましたね」

──彼は入団3年目に定位置をつかみました。
「そうでしたよね。自分は『何で使ってくれないんだ』となりがちな時期がありましたが、永嗣は出られなくてもつねに先を見ているというか、すごく向上心があった。彼には刺激を受けました」


2003年J2第1節・アルビレックス新潟戦の集合写真。川島永嗣(後列左端・21番)、島田裕介(前列左から2番目・17番)

──その後の彼の足跡を見ると、納得できるところがありますか?
「一緒にいるときから、レベルアップしていくんだろうなというのはありましたが、ここまですごいキャリアを築くとは想像できませんでしたね(苦笑)。でも、2004年に名古屋グランパスへ移籍して、当時の日本代表だった楢﨑正剛さんとチームメートになって、試合に出られないとしても学ぶんだとか、向上心と努力する姿勢は素晴らしかったです。良く知られていることですが、語学も家庭教師をつけて勉強していました。そうやって自分を信じていたからこそ、あそこまでいくのかなあ、と。いまでも尊敬できる存在です」


切り札としての役割

──島田さんは“天才肌”の選手でした。
「そこは少し、誤解されているかもしれません。人と違うことを考えるところは、小さいころからありましたが……。FKを決めたりもしましたが、プロになってから練習を重ねた成果でした」

──すみません、僕も誤解をしていた一人ですね(苦笑)。それでは、2004年のJ1昇格に触れましょうか。島田さんと森田浩史さんのホットラインが、多くの勝利を呼び込みました。
「いまだにそうやって言ってくれる人がいて、自分がやってきたことが認められているようで、とてもうれしいですね。あのシーズンは途中出場が多く、自分のなかでは非常にもやもやとしたものがあったんです。途中出場で得点やアシストをしても、次の試合で先発にはならない、ということが……」

森田浩史とのホットラインはチームの得点源となっていた

──当時の僕は“最強のジョーカー”と思っていましたけれど、島田さん本人はもちろん先発で出たかったわけですよね。
「そうだったんですが、結果を残していくにつれて、試合中にピッチサイドで準備をしていると、ファン・サポーターの方たちの期待を感じられるようになりました。僕のアシストからモリさんとかトニーニョが決めてくれて、監督の三浦さんも『頼むぞ』という感じで送り出してくれて、自分の役割ってこれなのかなと。途中から割り切ることができました。チームも第3クールの最後からは、負けなしでいきましたよね」

──第32節から13試合負けなしで駆け抜けました。
「チームの一体感が昇格につながりました。あのJ1昇格の経験は、自分のなかでも大きいですね」

──しつこいようですが、島田さんは最強のジョーカーでした。
「自分でも怖いぐらいに、点につながることがありました。変な話ですが、チームがリードするとちょっと残念でした()。同点とかビハインドの展開で送り出されて、点に絡んでみせる、という気持ちが強かったですから」

泣けなかったJ1昇格の瞬間

──印象に残っている試合を挙げると?
「いくつかありますが、一番印象に残っているのはやはりJ1昇格が決まった水戸ホーリーホック戦ですね。自分は76分に久永辰徳さんと交代して入ったんですが、この時点で3-0でした。J1昇格を決める最後の笛が鳴った瞬間に、ベンチとかベンチ外ではなくグラウンドに立っていたのは良かったですね」


クラブ初のJ1昇格を決めた水戸戦で14分間プレーした

──あのシーズンの島田さんは、J1昇格を決める瞬間のピッチに立つ資格があった、ということでしょう。
「そう言ってもらえるとありがたいのですが。コツコツやってきたことが、実ったのかもしれませんね。あの瞬間、自分はどういう感情になるのかなと思っていて、ずっと大宮を支えてきた奥野誠一郎さんや斉藤雅人さん、自分より年下のディビッドソン純マーカスらがうれし涙を流しているなかで、自分は涙が出なかった。もちろんうれしいのだけれど、スタメンで出続けてフルでやれなかった悔しさが大きかったんです。そこで、自分はまだまだ上にいけるんじゃないかという感覚がありました」

──J1昇格という大きな目標を達成したあの瞬間に、まったく違う種類の感情が沸き上がっていたとは。
J1昇格はうれしかったけれど、シーズンを通してフルで戦ったらどういう気持ちになるのかな、と思いました。新しいモチベーションを得た瞬間でもありました」

──翌年は自身初のJ1でのプレーとなりました。
J1ということで新たに選手を補強して、攻撃陣には外国籍の選手も入ってきます。より個性的な選手が集まるなかで、なかなかスタートで出るのは難しかった。アウェイの川崎フロンターレ戦だったと思うんですが、途中出場で得点を決めたんです。試合後に三浦さんが、『あのぐらいのパフォーマンスならスタートで使ってもいい』と言ってくれた記事を読んだのですが、途中から出て流れを変えるとか、膠着した試合を打開するという立場から、抜け出せなかったというのはありました。J1でも通用する部分と足りないものを、考える1年でした」


2005年J125節・川崎F戦で88分に直接FKを決めた

後編へ続く


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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