クラブ創立25周年記念 OB選手インタビュー
島田裕介(大宮アルディージャU15コーチ) 後編

クラブ創立25周年を記念して、大宮アルディージャでプレーしたOBたちにインタビューする企画がスタート! 今回は島田裕介U15コーチの後編です。様々なクラブを渡り歩いたキャリア後半、そして引退後から現在に至るまでを聞きました。


聞き手=戸塚 啓

いつかは大宮の監督に。夢に向かって走り続ける


選手寿命を延ばした草津への移籍

──2006年はJ2のザスパ草津(現在のザスパクサツ群馬)へ期限付き移籍しました。
「大宮でもスタメンを勝ち取れる自信はありましたが、自分が中心になってプレーしたい気持ちと、一度外に出て自分の価値を証明したい気持ちがありました。ザスパが欲しがってくれているという話もあり、覚悟を持っていきました。前年最下位のチームでしたが、自分の良さを突き詰めた結果、数字は残すことができました」


10番を背負い、フィールドプレーヤーでは最も多い時間ピッチに立ってプレーした

──9得点16アシストですから、獅子奮迅の活躍でした。
「自分は13年プロサッカー選手としてやりましたが、あの1年が選手寿命を延ばしたと思っていて。自分のこだわりとかプライド、J1でやりたいという気持ちだけで大宮にいたら、途中出場とか出番の少ない選手で終わっていたと思うんです。あのタイミングで厳しい環境に飛び込めたことが、良かったのかなと。もうやるしかない、という状況でしたから」

──翌年は大宮に復帰しました。
2006年のオフにたくさんのオファーが届いて、大宮に戻らない前提で進んでいたのですが、最終的に戻ることになりました。もちろん、戻ったからにはやってやろうという気持ちはありましたが、このシーズンはリーグ戦に1試合しか出られませんでした」

──チームはロバート監督のもとで苦しみ、シーズン途中で強化・育成部長だった佐久間悟さんが監督に着きました。
「ロバートさんはオランダ出身なので、サイドの選手はウイングのイメージなんですよね。外に開いていろ、と言われて。自分のプレースタイルでは、ラインを背負うとクロスしかなくなってしまうので、良さをなかなか出せなかったですね。なかなか試合に絡めない状況のなかで、波戸さんが『チャンスは来るから腐るな』と言ってくれたり、(小林)大悟も『シマさん、出たら絶対に活躍できますよ』なんて言ってくれていたんですが、自分のなかではうまく気持ちを整理できなかった。苦しむチームで力に慣れない歯がゆさがありました」

2007年のリーグ戦はJ126節・神戸戦の出場のみにとどまった


行く先々で10番を背負う

──08年は再び草津へ期限付き移籍し、その後はサガン鳥栖、徳島ヴォルティスと渡り歩きます。
07年のシーズンを経験して、プロ選手は必要とされるチームでプレーするのが幸せで、そういう環境で自分の価値を証明できるのだろうと感じました。J1のクラブから興味を持たれたこともありましたが、07年の経験があったので、自分をホントに必要としてくれるチームにこだわりました」

──アルディージャでの2004シーズンは鮮烈ですが、島田裕介という選手には草津、鳥栖、徳島のイメージもあります。
「ザスパの島田とか、鳥栖の島田というイメージを持っている方はいますね。それはうれしいことですが、大宮でも中心選手でプレーしたかった、というのはあります。他のチームでは10番を着けさせてもらいましたが、大宮では一度も着けなかったので。ただ、他のチームで活躍できたのも、大宮での経験があったからこそです。それは間違いありません」

──キャリアの最後は韓国Kリーグになりました。
2011年の徳島で、初めて契約満了になったんですね。次はどうするかと考えて、何事も経験なのでトライアウトに参加しました。そうしたらJ2のクラブがオファーをくれまして、そこへ行こうかなと考えていたときに、韓国からオファーが来て。ザスパで一緒にプレーした崔成勇さんが、ぜひ来てくれと。J2ならそれなりにできるというのはあったんですが、未知の世界へ飛び込んでみるのもいいかなと。家族にも相談したら前向きになってくれたので、行ってみようと決断しました」

──Kリーグの江原FCには1シーズン在籍しました。
「言葉が通じないこともあって、何事も自分をどんどん出していかないとうまく進まない。難しいことも多かったですが、誰にでもできる経験ではなく、財産として残っています。選手として揉まれましたし、友だちもできましたし」

 

解説者としてJ1昇格に立ち会う

──引退後は解説者として活躍します。
「もう少し現役をやるつもりだったので、引退後については何も考えていなかったんです。韓国から帰ってきて代理人と話をして、2013年の3月1日までにいいオファーがなかったら引退しようと。オファーは来なくてその日からセカンドキャリアを考えることになるのですが、どのチームもすでに編成とか体制は決まっているわけですよね(苦笑)

──確かにそうですね。
「とにかくお世話になったクラブへ挨拶に行こうということで、ザスパのプレシーズンマッチを観に行ったら、一緒にやっていた高田保則さんに会って。JFAのユメセンをやっているということで、つなげてもらいました。顔なじみの地元メディアの方と話をしていくなかで、解説とかもできるならやりたいと言ったら、ホントに話がきて、ザスパと徳島のピッチ解説をやらせてもらいました」

──解説者の島田さんは、そうやって誕生したのですか。
「その試合はメインの解説が髙田さんで、すごくやりやすかったということもあって、思ったことをズバズバ言ったら、当時のJリーグを中継していたスカパー! の関係者の方が、解説者もやってみないと言ってくれまして。そこから解説者とユメセンをやりつつ、指導もしたいので大宮のスクールを手伝わせてもらいました。週末に解説がないときは、街クラブの小学生の指導をしたりもしました。余談になりますが、大宮が2度目のJ1昇格を決めた試合、解説者は僕だったんです」

──ええっ!
「大分とのホームゲームで、0-2から逆転した試合ですよね。よく覚えています。大宮のJ1昇格、ピッチと解説で経験させてもらいした。それもまた、縁があるなあと」

──大宮のアカデミースタッフには、17年に加入しました。
「現役時代にお世話になった中村順さん(現ヴァンフォーレ甲府アカデミーヘッドオブコーチ)に『指導者に興味はある?』と聞かれて、大宮のジュニアのコーチに加えてもらいました。指導者としても大宮でスタートをきれたのは、すごくうれしかったですね。スタッフも知っている人ばかりで、すんなりと入ることができました」

 

監督を目指してS級に挑む

──最後に、これからの目標を聞かせてください。
「プロサッカー選手として経験した時間は、いま思うとかけがえのないものでした。プロの舞台はすごく厳しいけれど、ものすごくやりがいがある。その舞台へ監督として戻るのが夢です。いまはまだ足りないものがたくさんあると感じているので、いろいろな監督のもとで勉強をさせてもらって、40代のうちにトップチームの監督になりたいというのはあります」

──大宮でプロキャリアをスタートさせ、トップチームの監督になったOBはまだいません。島田さんの目標は、ファン・サポーターにとっても胸が躍るものです。
「簡単な世界じゃない、ということも分かっています。しっかり足元を見つめて、力をつけていきたいと思います」

──まずは今年度のJFA S級ライセンス講習、頑張ってください!
「違った価値観を持つ人との出会いは、刺激をもたらしてくれます。ユメセンをやっていたときもサッカー以外のオリンピアンとか、色々な人に話を聞く機会があり、自分がいかに狭い世界で生きてきたのかと痛感させられました。引退してすぐに指導者になるのも素晴らしい道ですが、解説者やユメセンをやったことで人間的な幅が広がりました。今回のS級でまた違う刺激を受けて、いい学びにしたいと思っています」


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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