クラブ創立25周年記念 OB選手インタビュー
渡部大輔(大宮アルディージャ普及担当コーチ)

クラブ創立25周年を記念して、大宮アルディージャでプレーしたOBたちにインタビューする本企画。第4回は2008年から2021年まで大宮アルディージャでプレーし、昨シーズンをもって現役を引退した渡部大輔 普及担当コーチに話を聞きました。

聞き手=戸塚 啓

「現役にこだわるよりも、早く大宮で働きたいという気持ちが強かった」


現役引退を決意した理由

──昨シーズンを最後に、現役から退きました。あらためて、引退を決断した理由を聞かせてください。
「身体的にはもう少しやれたなというのはあるんですが、自分の置かれた状況を客観的に見たときに、上へのステップというのはなかなか厳しいのかなというところで、どこまで自分がサッカーをやり続けるのか、という葛藤はありました」

──そうでしたか。
「大宮からSC相模原へ移籍したときもそうですし、今回辞めたときもそうでしたが、身体的にもできましたし、まだやりたいという気持ちはありました。相模原でチャレンジさせていただいたのですが、チームとしてなかなか結果を出せず、自分のパフォーマンスも悪いとは言わないまでも、チームの結果につながるものではなかったというのが、自分なりの評価でした」

──そうでしたか。
「まあでも、辞めるのがそこまで辛かった、ということはなかったんです。現役よりも引退後のセカンドキャリアのほうが長くなるのは、最初から分かっていましたので、1年でも早く始めたほうが次につながるかな、とポジティブに思いました。相模原でチャレンジできたのは一つ満足できたポイントというか、大宮以外のチームで1年頑張れたのは、自分の中で良い経験になりました。思い残すことはないかなというのがあって、現役にこだわるよりも、大宮で早く働きたいなという気持ちが強かったです」

──他のクラブを知ったことは、セカンドキャリアにつながる良い経験になったのでしょうね。
「そうですね。僕はとくにそういう経験がなかったので、1年でも他のクラブでいろいろな方と関わることができたのは、今後に生きていくんじゃないかなと思っています」

──15年の現役生活を振り返ると?
30歳までできたらいいな、というのが当初の目標でした。それを数年前に達成できて、自分を褒めてあげたかった。それからはできるだけ長く、という気持ちでした。周りのベテランの選手を見ると、35歳前後で引退していく選手が多かったので、次は35歳までやりたかった。気持ちとしてはまだまだやりたかったですし、体もついてきていました。ただ、さっきも言ったように少し引いてみたときに、ここで終えたほうがいいんじゃないかなという決断に至りました」

 

気合が空回りしたデビュー戦

──ここからは15年のキャリアを振り返っていきたいのですが、トップチームに昇格した当時を思い返すと?
「プロになりたかったので、そのためにパワーを使いましたし、ここからやってやるぞという感じでした。けれど、実際にプロ入りした1年目は、圧倒されてばかりでした。うまい選手がたくさんいましたし、まずはプロの環境にしっかり慣れなければ、という感じでした。緊張もしていましたし。ただそれが、現役生活の最後のほうになると、1年目はああいう選手がいたなとか、ああいう経験をしたなというのが思い出されてきた。1年目は何もできなかったですけれど、良い経験ができたと思っています」

──当時のチームには、J1の他クラブで経験を積んでいた選手が、多かったですからね。
「そうですね。代表経験者など有名な選手もいましたし、外国籍選手を含めて強力な選手が多かったと思います。その中で経験できたのは自分の財産ですし、現役を引退してサッカー界で働いている方もたくさんいらっしゃるので、今もつながることができているのはありがたいことです」

──公式戦へのデビューは、プロ2年目のリーグ開幕戦でした。清水エスパルスとのホームゲームでした。
「後半から途中出場したのですが、張り切り過ぎて足がパンパンで動けなかったことを、鮮明に覚えています。それからトレーナーに相談したり、いろいろな選手にアドバイスをいただいて、ウォーミングアップの仕方とか試合の入り方とかを、少しずつ学んでいきました。ここ数年は途中出場でも余裕を持って、問題なくできていました。それは、若いころの教訓があったからです」

──トップ昇格前は、基本的に先発ですものね。途中出場に慣れていなかった。
「ユースでは途中出場の経験があまりなく、周りの選手が疲れている中で自分はフレッシュな状態です。頑張らないわけにはいかない。周りの選手に『行け!』とか言われると行っちゃうんですが、それでバテてしまったりすることもあって。そういうこともすべて、良い経験になりました」

 

プロ生活最大の転機

──キャリアの中でのターニングポイントを挙げると、ポジションが変わったことでしょうか。
「おっしゃるとおりだと思います。FW登録でプロ入りしましたがなかなかチャンスがなくて、サイドハーフで少し試合に出られるようになりましたけど、ポジションをつかみ切れませんでした。そういう中で、SBへコンバートしてもらって、そこからスタメンに定着することもできました。スタメンで出られる喜びも感じましたし、30歳を過ぎてもプロでできたのは、ポジションのおかげもあったかもしれません。そうやって考えると、ターニングポイントだったと思います」

──鈴木淳さんが監督に就任した2010年でしたが、SBをやることに抵抗や戸惑いはなかったのですか?
「なかったですね。それよりも、ピッチに立てるという喜びのほうが大きかったですね」

──すごくスムーズにフィットした印象があります。
「淳さんは『思い切りやってごらん』という感じで言ってくれました。初めてSBで出場したリーグカップ(注:105月の名古屋グランパス戦)も、『ガンガン行かなかったら代えるよ』と言われました。そういうふうに分かりやすく言ってくれたので、僕もすごくやりやすかった。精神的に吹っ切れて、良いスタートが切れました」

──緊張はなかったですか?
「緊張はしていたと思うんですが、ガンガン行くしかないんだと割り切ることができました。あとはリーグカップの試合ということで、メンバーがリーグ戦とは違って、普段から一緒に練習している選手が多かったんですね。ちょっと変な言い方かもしれないですけれど、あまり緊張しないメンバーと言いますか(苦笑)

──お馴染みの人たちが多かった、ということですね(苦笑)
「そうです。練習で絡む選手が多いメンバー構成だったので、それも自分の良さを発揮することを後押ししてくれた気がします」

──FWからSBへポジションを下げたことで、前への推進力が発揮しやすくなりましたね。
「前向きでプレーできる機会がすごく多かったので、初めてSBをやったときは、こんなにスペースがある中で、しかも前向きでプレーできていいのかな、という感じでした」

──ああ、なるほど。
FWではつねにマークされたり、相手を背負ったりしていましたけど、サイドチェンジからオーバーラップをして、すごく広大なスペースがあって、自由にドリブルができて。プラスしかなかったですね」

 

大きかった鈴木淳監督との出会い

──印象深いシーズンを挙げると? たとえば、ベルデニック監督の下で21試合負けなしのJ1記録を作った12年から13年にかけて。あるいは、渋谷洋樹監督の下でJ2優勝J1復帰を果たした15年、さらにはJ1クラブ最高位の5位に食い込んだ16年などは、ファン・サポーターのみなさんが強く記憶していると思います。
「まさにそういうシーズンが思い浮かびます()。ベルデニックさんのときやJ15位に食い込んだときは、やっぱり印象に残っていますね。でも、J2優勝でJ1昇格を果たした15年は、自分のコンディションが良くて試合に多く出させてもらったので、そのシーズンはすごく良かったかなと思いますね」

──印象に残っている試合となると? 14年ものシーズンを大宮で過ごしていますので、何か一つを挙げるのは難しいと思いますが。
「そうですねえ……記憶がごちゃごちゃになっていたりもするので、難しいところはありますけれど……。でもやっぱり、埼スタでのダービーは印象に残っているというか、自分の財産になっていると思います。やっぱりちょっと、特別な雰囲気がありました」

──渡部さんはたくさん監督の下でプレーしました。その中で、印象に残っている方を挙げると?
「これは難しいですが……。鈴木淳さんはキャリアのターニングポイントを作っていただきましたし、“残り練”でクロスの上げ方を直接指導してもらったりもしました。若手に個人的にアプローチしてくれる監督で、淳さんとの出会いは大きかったです」

──インパクトを受けたチームメートもお聞かせください。
「たくさんいます、ホントにたくさんいます」

──そうですよね(苦笑)。では、外国籍選手から選ぶと?
「李天秀さんはうまかったですね。ちょっとこう、やんちゃなところがあるんですけど、うまいなあというのはあって。W杯に出ているんだな、というのがありました。サイズはそんなになく、同じアジアの選手という親近感もありました。ただ、やりやすい感じはないんです。感覚が違うので、凡人とは合わないのかな」

──クロスを入れる選手からすると、ノヴァコヴィッチやズラタンらは優れたターゲットだったのでは?
「彼らの場合はコンビでインパクトがありましたね。スロベニア代表で一緒にやっていたというのもありますし、ズラタンが汗をかいてノヴァがゴール前で仕事をする。それぞれにうまさがあってコンビネーションが良くて、二人のバランスも絶妙でした。ムルジャもすごく活躍してくれました。すごくやりやすかったです」

──日本人選手では?
「若いときに出会った選手のほうが、経験がないぶんインパクトを受けやすいんです。そういうことも踏まえると、桜井直人さんですね。プロ1年目の若手だった僕からすると、ボールの背負い方とか、相手選手とやりあっている姿とか、すべてが『すごいな』と。小さいのに体も使い方がうまいし、強いし。あの体格でもできるんだな、と思わせてくれました。チームメートもサクさんにはどんどんパスをつけていました。魂を持っていて、試合でも熱く戦ってくれる。そういう意味ではインパクトがありました」

──若手当時に出会った経験豊富な選手の記憶は、強く刻まれるし色褪せないところがありますよね。
「そうなんです。自分が中堅とかベテランになってくると、それまでにいろいろな選手を見ているというのもあって、若いころに比べるとそこまで大きな衝撃は受けないんです」

 

勉強させてもらった二人の選手

──家長昭博選手は?
「名前を挙げてほしいのかなあ、と思ってました()。もちろん、強いとかうまいとかはありました。ただ、インパクトを受けたというよりも、たくさん学ばせてもらいました。一緒にやれたことが財産という感じの選手です。教えてもらったことはないですけど、練習とか練習後のボール回しとか、紅白戦で対戦したりとか、いろいろな場面で勉強になる選手でした。アキくんは左利きで、僕とはタイプも違いますが、どういうふうにやっているのかはつねに見ていました。一緒にやれた3年間のおかげで、自分も成長できたと思います。今でもアキくんがJ1で活躍してくれているおかげで、『一緒にやったんだよ』と言えますし」

──SBの選手では?
「右ではなく左SBですけど、下平選手のプレーを見て勉強しました」

──下平匠さんは12年、13年に大宮に在籍しました。
「下平選手が左で、僕が右で、困ったら下平選手にボールを預ける、という感じがありました。左サイドのチョ・ヨンチョルと匠くんで局面を打開してから、サイドチェンジで僕のところへボールが来る。スペースをたくさん持てる中で攻撃をさせてもらっていたので、試合中もうまいなあと見ながら学んだことがたくさんありました。下平くんと家長くんは、勝手に勉強させてもらって、自分の中で積み上げることができました」

──渡部さんが左サイドで起用されることもありました。
「右サイドと同じプレー、左利きの選手のようなプレーはできないので、自分にできることを考えながらやっていました。左サイドでも、チームから求められることを心掛けていましたけど、最後まで難しかったというのは正直なところです。右で連続して出て、次の試合は左となると、せっかく右のイメージが固まっているのに逆サイドになってしまって、なかなか積み上げられない部分がありました。その逆で、せっかく左に慣れてきたのに右、みたいなこともありました。いろいろとありましたね」

──両サイドできることは、渡部さんの強みの一つになっていったと思いますが。
「それも良し悪しなんですよね。両サイドができるからサブに置いておこう、ということになるかもしれないので。器用なぶん、良いことも悪いこともあるでしょう。もどかしいときもありました。相模原でもそうだったので」

──それはでも、自分ではどうしようもできないところもあります。だから、もどかしいのでしょうが。
「左でも自分で満足できるレベルへ達したら、どちらもレギュラークラスでできるから問題なかったかな、というのは自分の中であります。それも含めて、今の仕事に生かせればと思います」

──自分の現役時代に照らし合わせて、いろいろな立場の選手の気持ちが想像できるのでしょうね。
「そうかなあと、今のところは思っています」

──アカデミー出身の選手としての責任感とか自覚というものを、ずっと背負ってきたところもあったのでは?
「自覚はもちろんありました。ただ、クラブ関係者の方からは、もっと表に出してというか、積極的に引っ張ってほしいと言われることもありました。向き不向きがあるので(苦笑)、なかなか難しいですけれど、自分なりに意識してやっていました。練習でも試合でもチームのために100パーセントやっている姿を見せることができれば、それが一番かなというのは最終的に思っていたことです。ちょっと気持ちが落ちているような選手がいたら、話をしたりもしましたけれど、僕自身がいろいろな選手を見て学んだので、同じように見てもらえば、と思っていました」

 

普及担当コーチとして過ごす刺激的な日々

──現在は普及担当コーチとして活動しています。
「楽しいし、大変です。同じサッカーの世界ですけれど、知らないことばかりでいろいろな発見があります。子どもたちがすごくキラキラした目でサッカーをやるし、アルディージャを応援してくれる。自分たちはクラブ関係者、パートナー、ファン・サポーター、いろいろな人たちに支えられてサッカーをやってきた自覚があるのですが、こんなに応援してもらっているんだというのを、あらためて感じることができています。子どもたちはホントに純粋で応援してくれて。普及の現場では園児から小学6年まで見ているので、すごく勉強になります」

──園児と小学6年生では、渡部さんのアプローチもまったく違うものになりますね。
「もちろんそうですね。サッカー経験者と未経験者が混ざっていますし。すごく勉強になりますし、刺激的です」

──指導者ライセンスはどこまでお持ちなのですか?
B級まで持っています」

──将来的にはS級を取得して
「うーん、そうですね。そこまで取れるチャンスとタイミングがあれば、とは思っています。指導者として少しずつ成長をして、いろいろな幅が広がればいいなと思っていますし、大宮の力になりたいので、どのポジションで、どう働くべきなのか、ここから考えていきたいなと思います」

──引退後もサッカーに関わっていくのは自然な流れで?
「まったく違うことをすることも含めて、幅広く考えていました。現役生活に悔いはなく、引退後は絶対にサッカーに携わりたい、ということではなかったのです。最終的に決断したのは14年間このクラブでプロとしてやらせていただいたので、その経験を生かせたらいいのかなと考えました」

──当たり前ですけれど、大宮への愛着は深いでしょうし。
「そうですね、それはあります()

───最後にファン・サポーターへ伝えたいことを聞かせてください。
「練習でも試合でも選手に声をかけてくれて、ホントに温かかったです。NACK5スタジアム大宮はバックスタンドが近くて、右SBのときは後半にバックスタンド側になることが多くて、みなさんの声援がものすごく励みになりました。選手はホントに励みになっていることを、もう一度お伝えしたいです。後押しになっていることを、ぜひ知っていただければと」

──スタンドからの声援も聞こえるそうで。
「そうですね、『頑張って』とか言われて、ありがとうございますと言いたいんですけれど、試合中はさすがに言えなくて。でも、スタンドの声援はホントに良く聞こえます。今は練習も見学できると聞いていますので、そちらにもぜひ足を運んでいただければ。選手は『今日はいっぱい来てるね』とか、『最近は勝ってるから多いのかね』とか、話をするものなんです。もちろん、自分たちが良い試合をすることで応援してくれる人が増える、練習や試合を観に来てくれる人が増えるわけで、自分たち次第のところはあるんですが」

──自分たち次第のところはあるんですけれど、より多くの人に来てくれるとやはり選手はうれしいですよね。
「練習や試合に来てくれて、声をかけてもらえるのは、試合中のここぞというところで最後の一歩が出るかどうかにもつながっていきます。みなさんの力を貸していただけたらと、あらためてお伝えしたいです。僕もファン・サポーターのみなさんと一緒に、クラブを支えていけたらと思っています」


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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