Vol.044 戸塚 啓「レジェンドの旅立ち」【ライターコラム「春夏秋橙」】


ピッチで戦う選手やスタッフの素顔や魅力を、アルディージャを“定点観測”するオフィシャルライター陣の視点で、毎月1回程度お届けします。

Vol.044 戸塚 啓
レジェンドの旅立ち

「長い間お世話になりました」というお礼と、「ありがとうございます」という感謝を、まずはお伝えしなければならない。

奥野誠一郎さんがクラブを離れることが、3月31日付けで発表された。4月から故郷の福井県に戻るという。

アルディージャ在籍期間は、21年6カ月にも及ぶ。彼の足跡はそのまま、クラブの歴史をなぞることになる。

福井県の名門・丸岡高校在籍時は、スケールの大きなウインガータイプのFWだった。同校卒業とともに横浜フリューゲルスへ加入し、プロ3年目の1995年にDFとしてJリーグデビューを飾る。

アルディージャには98年に加入した。同年にクラブ最後のJFLを戦い、翌年には発足1年目のJ2リーグのピッチに立つ。記念すべき開幕戦のメンバーには、もちろん、奥野さんがいる。

背番号は当時から「2」だ。彼のアイコンとなっていく番号である。

01年から06年にかけて成立したトニーニョとのセンターバックコンビは、クラブの歴史でも特別と言っていい。菊地光将と河本裕之も忘れがたいコンビだが、J1昇格からJ1定着の土台を築いた意味でも、奥野・トニーニョのコンビを記憶に深く刻むファン・サポーターは多いはずだ。

クラブ初の昇格を決めた2004年のJ2では、全44試合にフルタイム出場している。アルディージャでは彼一人が達成した記録だった。警告を受けるリスクの高いポジションで、ひたむきにチームを支える姿は何とも頼もしかった。

クラブがJ1へ昇格する以前は、非公式なものも含めて他クラブから獲得の打診を受けたと聞いた。一度ではなく、何度か。

そのたびに奥野さんは、アルディージャのユニフォームを選んだ。その理由が胸に響く。

「もう一度J1でプレーしたいのではなく、アルディージャの選手としてJ1でプレーしたかった。だから、残るという決断を迷うことはなかったですね」

キャプテンも務めた。背番号「2」と主将の腕章が、どこから見てもすっきりと収まっていた。クラブへの忠誠心と献身性を、絶えず示してきたからだろう。芯の強さと優しさを兼ね備えたリーダーだった。

引退後は育成のカテゴリーに長く携わった。17シーズン途中から、トップチームのコーチに就いたこともある。昨シーズンはヴェルフェたかはら那須(現ヴェルフェ矢板)の監督を務めたが、08年からスタートした指導歴は、そのほとんどがアルディージャの育成で埋められている。

新天地となる福井県サッカー協会では、ユースダイレクターの職に就く。20年を超える年月をアルディージャで過ごしたことで、奥野さんの体にはこのクラブのDNAが組み込まれているに違いない。本人がことさらに意識せずとも、アルディージャのスタイルになじみやすい選手が、育成されていくのではないだろうか。

クラブを離れたことで、物理的な距離は遠くなる。それでも、アルディージャと奥野さんの結びつきがなくなることはない。数年後には彼が育成に関わった選手が、アルディージャでプレーすることになるかもしれない。

今回の別れはきっと、新たな出会いの始まりとなるはずだ。


戸塚 啓(とつか けい)

1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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