ROOTS 奥抜侃志【ちょい出しVAMOS】

大宮アルディージャマガジン『VAMOS』の人気連載『ROOTS』。アカデミー出身選手の原点を紐解くこのコーナーのアーカイブを、デジタルVAMOSで掲載! 今回は、プロ3年目を迎えた二十歳の奥抜侃志編をお届けします!
※2018年12月20日発行『VAMOS VOL.117』より。内容や役職は掲載時のまま

あのころがあるから、今がある ROOTS
奥抜侃志

文=河合 拓

決しておしゃべりなタイプではない。しかし、それまで淀みなく自身のキャリアを振り返っていた奥抜侃志が言葉を詰まらせたのは、「これまでのキャリアで壁を感じたことはありますか?」という質問をしたときだった。

プロになるほどのサッカー選手であれば、そのキャリアで大なり、小なり壁に直面し、それを乗り越えることで成長してきたはずだ。だが、今年19歳になったばかりのルーキーは、首をかしげる。

「壁かぁ。壁に当たったということは、ないですね。海外に行ったときは、もっとすごい選手がいっぱいいて、今のままではここでプレーするのは無理だなと思いました。それくらいですかね」

奥抜が大宮アルディージャJr.ユースに加入してからプロに入るまで指導にあたってきた斉藤雅人にその話をすると、「いろいろありましたけどね。壁じゃなかったと言っちゃうアイツはすごいですね」と、苦笑いしつつ驚く。

天真爛漫なドリブラーは、どのようにトップチームにたどり着いたのか。


最高に楽しかった、育成年代でのサッカー

両親が「泣き虫」だったという幼少期の侃志は、2つ年上の兄・武尊の後を付いて回って遊んでいたという。奥抜兄弟は家の中で遊ぶことは少なく、川に遊びに行くなど、自然の中で育っていった。

侃志がボールを蹴り始めたのは、3歳のとき。それも兄の影響だった。

「日韓ワールドカップを見たお兄ちゃんが『サッカーをやりたい』と言って、サッカーを始めたんです。僕はサッカーをやりたいというよりも、お兄ちゃんと遊びたかったので、一緒にサッカーを始めた感じですね」

同学年の子どもたちと比べても体格の小さかった侃志が、2つ上の兄たちとボールを蹴っていたら劣勢になるのは明らかだった。ボールを取られ、思うようなプレーができないたびに、泣き虫・侃志は涙を流して悔しがりながら、ボールを取り返しにいった。

そんな環境でプレーしていた影響もあるのだろう。侃志は自分の足でボールを扱う「ドリブル」に魅せられていく。

3歳で初めて入った足利FCでは、コーンをドリブルで抜いていく練習をひたすらやった。プロになった今でも、練習後に足元でボールを転がし、黙々とドリブルをし続ける。そのクセがついたのは、このときだった。

当時、指導していた前川吉市さんは、「自分の個人技を上げたいと強く思っていることを感じましたね」と、振り返る。それでも決して、独りよがりな選手ではなかったのだと目を細める。

「普通の子は『ドリブルで行ってもいいよ』というと、それだけをやりがちです。でも彼は個人プレーに走りませんでした。技術は頭一つ抜けていましたし、同年代の子どもとプレーすると、一試合の中で5点、6点と取ることもあったんです。でも、彼は個人でゴールを取ったと感じさせなかった。だからチームの中で浮くこともありませんでした」

兄・武尊が小5になり、群馬県の強豪ファナティコスに入団することになると、小3の侃志も同じユニフォームを着ることを選ぶ。足利FCでドリブルの楽しさを覚えた侃志は、ここでさらにサッカーにのめり込んでいく。

「ワンツーを多用するチームだったんです。それまではドリブルだけを考えていたのですが、もう一回ボールをもらうことを覚えてプレーの幅が広がっていきました。何回もボールに触ることができるし、ドリブルも生かせて、最高に楽しかったです」

ファナティコスでは小4、小5のときに全国大会でベスト16に進出。小6では、ベスト8まで勝ち上がった。

それまでサッカーをプレーしても、テレビなどで見ることはなかったという侃志だが、2010年の南アフリカW杯を見ていて、一人の選手のプレーに目を奪われた。アルゼンチン代表のリオネル・メッシだ。

「僕はシザース(ボールをまたぐフェイント)があまり好きじゃないんです。メッシはシザースをしないし、どうやって抜くのかをすごく見ました。ああやって初速でゼロから100に持っていき、キレで相手を抜くドリブルは、理想に近いです」


ブレることのなかった、ドリブル至上主義者

小学校を卒業する頃、奥抜は東京ヴェルディの下部組織に進むことが内定していた。東京Vのアカデミーは昔から選手育成に優れており、細かくパスをつないで崩していく攻撃的なサッカーのスタイルも、思い描く理想に近いものだった。実家を離れ、練習場に通える範囲に住むことも決まり、いよいよというときだった。経営状況の影響を受け、東京V入りが破談となってしまったのだ。

声を掛けてくれていた他のクラブには既に断りを入れた後。一転して行く先がなくなってしまう。結果的にファナティコスのJr.ユースで活動を続ける中で、いくつかのJクラブの下部組織から誘いが届いた。そのうちの一つが、大宮だった。小学生年代で何度か大宮と対戦した経験のあった奥抜は、実家から片道2時間で通うことのできる大宮に入ることを決めた。

「大宮に入って、ポゼッションを学びました。それまではボールを持ったらすぐに仕掛けて、ゴールに向かう感じだったんです。でも、時間を見ることとか、頭を使うことを教わりました。仕掛けるとき、仕掛けないときの見極め方、そして仕掛けるためにどうすればいいかを考えるようになりました」

そう振り返るが、当初は悩むこともあった。ファナティコス時代であれば、一度ボールをはたいてからも、すぐにボールが返ってきた。しかし、『ここでボールが返ってくれば抜けるのに』というときでも、サイドチェンジなどのロングボールで展開されてしまい、どこに動けばボールを受けられるか分からなくなった。

常に頭の中で『小学生時代のように、細かく崩していくスタイルでやりたい』という理想を持ちながらも、ロングボールも用いる戦い方に順応していった。

Jr.ユース時代には、忘れられない経験をした。JFAプレミアカップで優勝した大宮Jr.ユースは、海外で行われた国際大会に出場することとなった。このとき、奥抜は骨折をしていてプレーすることができない状態だったが、当時Jr.ユースチームを率いていた伊藤彰監督は、世界を見せるために奥抜を同行させた。マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)やレアル・マドリー(スペイン)、ドルトムント(ドイツ)といった世界的な名門のアカデミーが出場する大会で、奥抜の目を奪ったのは、アーセナル(イングランド)の10番だった。

「衝撃でした。アーセナルの10番を着けたクリス・ウィロックは別格でした。ドリブルもできて、パスもうまくて、シュートも打てる。同い年でこんな選手がいるんだと」

同年代の世界トップレベルに触れた奥抜だったが、自身の『ドリブル至上主義』が変わることはなかった。

全体練習後のピッチには、ボールと戯れ続ける姿があった。芝の切れ目などを相手DFに見立てて、ドリブルでかわす。レガースが落ちていれば、それをかわす。周りからは何をやっているんだろう? と見られても、集中してしまうと2時間が経っていたこともあったという。どんな状態にあっても反射的に相手をかわせるように、ボールタッチの感覚を自身の体に染み込ませていった。


プロ1年目で気付いた、シュートの重要性

ユースでも1年時からベンチ入りし、2年時からはレギュラーに定着する。しかし、3年になった2017年、チームはプレミアリーグからプリンスリーグに降格してしまう。

「点を取ることよりもドリブルが楽しいのは、ユースでも変わりませんでした。得点を取ることもうれしいのですが、ドリブルで相手をかわしたときに比べたら、喜びは少なかったですね。1タッチシュートを決めるなら、ドリブルでアシストする方がうれしかった。あのときは『何で勝てないんだろう』と悩んでいましたが、今思えば、自分がシュートを打てるところで、もう一回、相手をはがそうとしてボールを運んでいたな、と」

点を取らないと、評価されない。そう強く思うようになったのは、今シーズン、トップチームの一員として戦うようになってからだ。

「ゴールを決める選手たちを見て、かっこいいなと思ったんです。これまで、ほとんどサッカー観戦をしたことがなかったので、点を取って、会場がバーッと盛り上がる様子は新鮮でした。いくらドリブルで抜いても、あそこまで会場が沸くことはありませんからね。自分で相手をドリブルで抜いていってゴールを決めたら、すごく盛り上がるだろうと思うし、これだけ出場機会をもらっているのだから、もう何点か取っていないといけませんよね」

ゴールに沸くNACK5スタジアム大宮に心を揺さぶられ、ゴールへの意識を高めた奥抜は今、全体練習後にクロスやシュートといった、得点に直結するプレーを磨いている。ユース時代までは「ドリブルでチャンスを作れていたから、正直に言うと、少し聞き流していた部分もある」という指導者の声にも、耳を傾けるようになった。

「トップチームでは原崎政人ヘッドコーチらに『いくらドリブルで抜いても、点を取らないと評価されない』と、すごく言われています。僕の場合はドリブルが当たり前になっているから、もっと上を目指すには、点を取らないといけないと。今は、すごく点を取ることにこだわるようになりましたね」

あきれた表情を見せるのは斉藤だ。

「最近、左足でクロスを上げる練習をしていると聞きましたが、中1のときから言い続けていたことですよ」と、苦い顔を見せる。だが、それでも教え子の変化は、彼の頬を緩ませる。

「中1から高3まで、ずっと一緒でしたからね。プロに入って1年目からトップチームで試合に出て、収穫があったと同時に壁も感じているはず。それを乗り越えてくれれば、また一つ大きな選手になってくれると思います」

これまで指導してきた中で、斉藤は奥抜がいくつかの壁に直面してきたと感じていた。そのうちの一つが、2017年に選出されたU-18日本代表の活動だ。何度か代表に招集された奥抜だったが、2020年五輪を目指すチームに定着できなかった。

その話を奥抜にぶつけたところ、「壁とは少し、違う感じがするんですよね」と、自身の思いを口にした。

もちろん、日本を代表して戦いたい思いはある。彼の理想とする誰もが認めるアタッカーになれれば、自然と、そこに戻ることができるだろう。

「ドリブルはプロでも自分の理想に近い形でできています。あとはシュート。シュートが相手の脅威になれば、ドリブルももっと生きるので。今はシュートを磨いていきたいと思います」

プロ選手として活動する中で、見えてきた自分の前にある壁。その壁を越えられたとき、奥抜はオレンジのファン・サポーターに多くの歓喜を与えられる存在となっているはずだ。

奥抜 侃志(おくぬき かんじ)
1999年8月11日生まれ。栃木県出身。171㎝/60㎏。ファナティコスから中学1年の10月に大宮Jr.ユースに加入。そのままユースに昇格し、2017年にはU-18日本代表にも選出される。2018年、同年代ではユースチームからただ一人、トップチームに昇格を果たすと、ルーキーながら出場機会を得た。今シーズンから背番号が11になり、中心選手としての活躍が期待される。

1999―奥抜侃志誕生
2002―足利FC
2008―ファナティコス
2012―大宮Jr.ユース
2015―大宮ユース

河合 拓(かわい たく)
『週刊サッカーマガジン』編集部、『ゲキサカ』編集部を経て2015年よりフリーランスとして活動している。フットサルの専門サイト『FUTSALX』の立ち上げメンバーであり、フットサルにも造詣が深い。大宮アルディージャマガジン『VAMOS』では、塚本泰史クラブアンバサダーや秋元利幸プロジェクトマネージャーの連載などを担当している。

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