選手の内面に迫ったロングインタビュー企画『INSIDE』。第4回は今シーズン、FC琉球から加入した中野克哉 選手に、これまでどのようなサッカー人生を歩んできたのか、オフィシャルライターの戸塚啓さんが話を聞きました。
聞き手=戸塚 啓
「サッカーは続けたかった。でも、大学で力をつけてプロへ行くぞ、という感じではなかったんです」
サッカーを“楽しんだ”小学生時代
──昨年11月に入籍を発表されました。あらためまして、おめでとうございます。
「ありがとうございます。奥さんの実家がたまたま埼玉県の草加市で、そのあとに大宮への移籍が決まりました。すごい偶然だなあ、でも良かったなあ、と二人で話しています」
──中野選手自身は、関東圏に住むのは初めてですね。
「当たり前ですけど、標準語を話す人が多いんだなあと(笑)。関西に比べるとちょっとよそよそしい人が多いのかな、なんて思ってもいましたけど、全然そんなこともなくて。関東だあ、みたいな感じもなく、楽しく過ごせています」
──それでは、サッカー始めたきっかけから教えてください。
「父がサッカーをやっていて、6歳年上の兄、4歳年上の兄もやっていたので、気がつけばボールを蹴っていたという感じです。何歳からかは覚えてないですけれど、幼稚園ぐらいから蹴ってたんじゃないかな。少年団に入ったのは小学1年で、鳥見小学校という学校の生徒だけのチームでした」
──その鳥見サッカー少年団ですが、奈良県内の大会で毎年のように好成績を収めていますね。
「僕が6年のときは、県で2位か3位だったか……全国大会には出られなかったですね。1学年15人弱ぐらいで、なかなか実力のある子どもたちがたまたまそろっていて。練習は週に3回で、そのうち1回しか監督は来ないんです。あとの2回はみんなで自主練です。自主練と言ってもある程度やることが決められていて、あとはみんなで楽しくやっているような感じで。振り返ると、もっともっと技術を学んだり、フットサルとかやっておけばよかったなあとも思いますけど、楽しくやれていました」
──ポジションは?
「FWだったと思います。サッカーを始めてから、後ろのポジションはやったことがないので」
──バンバン点を取って?
「小学生のときは取ってましたね。中村俊輔さんが好きでした。同じ左利きの選手ってこともあって、ドイツ・ワールドカップの前後はめっちゃ好きやった記憶があります」
高円U-15で大宮アルディージャと対戦
──小学生のころは楽しくサッカーに触れて、中学生になるとYF NARATESORO(ナラテソロ)に入りました。元日本代表DFで奈良県出身の柳本啓成さんが立ち上げたクラブですね。
「僕が中学へ入るときにできたんです。奈良県内には、小学生年代で選抜とかに入った選手が行くクラブチームが2、3あるんです。僕の代では選抜で一緒になった仲の良い選手が、みんなそこへ行きました」
──1年目とのことでしたが、指導体制は?
「NHKのサッカー中継などで解説をしていた山野孝義さんが監督で、セレッソ大阪とかでプレーした米山大輔さんをはじめとして、元プロの人たちがコーチでした。柳本さんはクラブの代表という立ち位置で、たまに現場に出てくるような。そこで始めて本当のサッカーを教わった感じですね。走りも含めてランニングのメニューも多かったし。技術的な指導も受けました」
──成績はどうだったのでしょう?
「1期生なので奈良県の3部から始まって、確か最後にU-15関西サンライズリーグの一歩手前まで上がったんかな……。3年時に高円宮杯全日本U-15選手権に出たんです」
──中野さんにとって初めての全国ですか?
「そうです。1回戦で大宮アルディージャと対戦してボコられました(苦笑)。2-5だったかな。(浦上)仁騎とか(小島)幹敏が出てたんじゃないかな」
──中野選手は10番を着けていました。アルディージャの10番は小島選手ですね。浦上選手も出場しています。
「確か3点か4点先に取られて、そこから2点取ったというか、取らせてもらったみたいな展開で。メッチャ強かったですよ」
当時の公式記録
京都橘高校で選手権準優勝
──高校は京都橘へ進学します。
「柳本さんが京都橘の監督とつながっていて、二人の間では僕が中2ぐらいで行くことが決まっていたみたいで。京都橘がどういう学校なのか、予備知識とかはほとんどなかったのですが、僕以外にも県外へ出る選手は多かったし、自分も行こうかと」
──1年から高校選手権に出場して、いきなり準優勝します。
「当時は全国大会に出られたらすごいね、というくらいのチームやったんですよ。インターハイ予選もベスト8で負けていましたし。だから、ひさしぶりに選手権に出られて良かったねと言われていて、本当にもう、あれよあれよと勝っていったので」
──全国の強豪校ともいい勝負できるぞ、というような手応えはなかった?
「なかったです。ホントに全然なかったんです。一戦一戦頑張ろうっていう。決勝まで行きましたけど、僕自身は連れていってもらったという感じがありました、やっぱり。先輩に囲まれていましたし」
──2学年上に仙頭啓矢選手(FC町田ゼルビア)、1学年上に小屋松知哉選手(柏レイソル)がいました。
「2トップが暴れてましたねえ(笑)。だからホントに、連れていってもらった感じだったんです。決勝で負けたあとで、同級生とは「逆に良かったって考えよう」って話しました。1年で優勝したら、それ以上がないじゃないですか。連覇という目標はあるんでしょうが、優勝よりも上はないから、目指すものが残って良かったなって、考えようと。そんな話をしていたら、どんどん成績が下がっちゃいましたけど(苦笑)」
──下がったとはいえ、選手権では2年は準決勝、3年は準々決勝まで勝ち上がりました。それでも十分すごいですよ。
「3年からは自分も主力でやっていたし、チーム的にもこの年はいけるぞ、みたいな雰囲気はあったんですけどね。それが良くなかったのかな」
──そうなると3年生では、モチベーションがものすごく高かったのでは。
「そうですね、本当に優勝したいっていう気持ちでした。3年のときはプレミアリーグに出ていて、なかなか勝てなくて何とか残留という成績でした。ただ、Jクラブのユースチームとも試合ができて、レベルの高いところでやっていたから選手権でもいけるんじゃないかって思ってたんですけど……。前育(前橋育英高校)が強すぎました」
──0-3で負けた当時の前育には、渡邊凌磨(FC東京)、鈴木徳真(ガンバ大阪)、坂元達裕(コヴェントリー・シティFC)、小泉佳穂(浦和レッズ)、岡村大八(北海道コンサドーレ札幌)、金子拓郎(ディナモ・ザグレブ)……プロ入りする選手がごっそりといました。
「僕らもインフルエンザに罹った選手がいたり、ケガ人が出たりで、ベストメンバーじゃなかったのはあるんですが。でも、夏のインターハイでも前育に0-4で負けました。同じ相手にそのスコアって、今思い出しても悔しいですよ」
──京都橘での3年間を通して、自分の成長を感じることはできましたか?
「ここが成長したって言うのは難しいですけど、1年生から試合に出させてもらって、精神的にちょっとタフになったかなとは思います。いろいろな舞台で、いろいろな相手と試合ができたので」
2013年度と2014年度には日本高校選抜の一員としてNEXT GENERATION MATCHを戦っている
大学時代に初めての挫折を経験
──高校卒業時の進路については? プロ入りは考えなかったのでしょうか?
「Jクラブからの直接的なオファーはなかったんです。J1のあるクラブから、提携している大学に行ってくれという話はありました。でも、それが関東の大学だったので、自分で探したいですと。幸いにも高校で結果を残せたので、大学は複数の選択肢を持つことができたんですね。一番上の兄が関西大学で、同じところへ行くのもなあと思って、僕は関西学院大学に決めました。サッカーがもしうまくいかなかったとしても、きちんと卒業すれば就職はできるだろう、なんて親とも話をしていました」
──高校卒業の時点では、プロに行きたい気持ちはなかった?
「1ミリもなかったですね」
──それは意外です……。高校選手権の悔しさをプロでぶつける、選手権で負けた相手より先へ行く、とかいう気持ちを抱いたのかと思いました。
「そういう欲みたいなものが、僕はないんですよね」
──でも、サッカーは続けたかった?
「はい、サッカーは続けたかった。でも、大学でもっと力をつけてプロへ行くぞ、という感じでもなかったんです」
──中野選手の入学1年目、関西学院大学は大学4冠を達成しました。
「めちゃくちゃ強かったです。呉屋大翔さん(ジェフユナイテッド市原・千葉)、小林成豪さん(レノファ山口FC)が4年生で、総理大臣杯とインカレで優勝して、関西選手権と関西1部も優勝で、大学4冠を達成したんです。僕はと言えば、高3の選手権が終わったあとに左足首を手術したんです。それで出遅れたのもあって、なかなか試合に絡めなかった。でも、レベル的にも全然届いていなかったですね。そこで初めて挫折した感じはありました」
──高校までのキャリアをたどると、確かに挫折はなかったですね。
「ケガもありましたけど、Aチームにも入れないレベルでした。ホントにレベルが高かったですね。逆にそれが良かったかな、と思います。試合に出られない時期も経験したし、大学1年とか2年にかけては、サッカーをもっとうまくなりたいと真剣に考え出した時期かもしれないですね」
──なる、ほど。
「関学のサッカー部って、いろんな部員がいるんですね。プロを目指す人がいれば、勉強もしっかりやっている人もいて。自分みたいに推薦で入ってきた人がいれば、一般入試で普通に入部してくる人もいる。その中で、みんなが一生懸命やって。自分の場合は試合に出られない時期を経験して、高校までは尖ってたけど、大学へ行って柔らかくなったところがあって。『大学へ行って良かったな』って、みんなに言われます」
出会いに恵まれた京都時代
──そして、どこかのタイミングで、『よし、Jリーグへ行きたい』というスイッチが入ったのですか?
「それが、そこまででもなかったんですけど、3年のときに関西学生リーグで得点王になったんですね。そこで、京都サンガF.C.から声がかかって、3年の終わりから4年のはじめぐらいにかけて練習参加して、じゃあ決まり、と」
──そのときの感情は?
「やっぱり、うれしさがありましたね。京都の高校を卒業した自分からすると、京都の地でプロサッカー選手になれるっていうのがうれしかったですね」
──高校時代にお世話になった人たちも、京都入りを喜んでくれましたか?
「そうですね、喜んでくれました。プロになってからは、試合を観に来てくれたりもして。なかなか出られない時期もありましたけど」
──プロ1年目はいきなり開幕スタメンでした。
「それがダメだったんすかね」
──え、っと、どういうことでしょう……?
「ちょっと調子乗った部分が、あったかもしれなくて。なんかいけるもんやなあって思いながら使ってもらっていて、でも、第10節ぐらいから試合に絡めなくなって」
──開幕から4試合連続でスタメンでしたが、第5節は途中出場で、第8節にまた途中出場して、そこから出場機会が減っていきました。
「そう、そう。そうでした。2年目も試合に出ていた時期があったんすけど、ずっと絡めない時期もあって」
──2年目は開幕節に途中出場して、第8節から第11節まで4試合連続でスタメン出場しました。第13節も先発してシーズン初得点を決めて、翌節もスタメンで得点しています。ただ、シーズン通算では14試合出場にとどまりました。
「なんでかなあ、うーんっ、移籍しようかなあと考えていたら、3年目に曺(貴裁)さんが京都の監督になると聞いて。周りの人からは『お前みたいなヤツは、曺さんの下で一度やったほうがいい』と言われて」
──湘南ベルマーレの監督だった当時から、曺貴裁さんは若い選手の育成に定評がありました。
「曺さんが監督になるだけじゃなくて、新しい選手も入ってくる。試合に出られるのか、けっこう厳しいかなあと思ってたんすけど、とにかくやってみようと思いました」
──で、どうでしたか?
「曺さんはそれまでの自分が、出会ってこなかったタイプの監督さんでした。何て言うのかな……」
──鬼軍曹的なタイプ?
「まあ、そんな感じですね(笑)。自分で言うのもなんですけど、たぶんまあまあ気に入られて。気に入られたっていうか、いつも何か言われてるような感じでしたね」
──出場試合数は、2年目よりも減りました。
「試合数はそこまでじゃないんですが、メンバーには割と入れて。すごくタメになったというか、プロとしてやっていく意味でいい1年でした。2021年の京都では、(長澤)徹さんとも出会っていますし」
──当時の取材で、「曺さんに会って意識が変わった」、「サッカーとは何かを教えてもらっている」と話しています。
「言葉で説明するのはちょっと難しいんですけど、プロサッカー選手とは何ぞやっていうことを、日頃の姿勢なんかも含めて学んだ気がします。曺さんと徹さんだけじゃなく若さん(若宮直道コーチ)とか、ホントにいい人たちに出会うことができました」
──プロサッカー選手としてのキャリアには限りがありますから、出会いはホントに大事ですよね。
「さっきも言ったように、3年目はあまり出ていない。たぶんスタメンで出たのは1試合くらいじゃないですかね」
──2試合、でした。
「そうですよね。でも、4分の3ぐらいの試合で、メンバーには入っているんですよ。なかなか出られないときは、徹さんが気にかけてくれました。いろいろな意味でめちゃくちゃ濃い1年というか、いい1年だった気がします。曺さんとは、つい最近も電話で話しましたよ」
──え、あちらから、かかってきたんですか?
「先月だったかな、いきなり電話がかかってきました。僕はわりと相手の懐に入れるタイプで、ラフな感じで話しています」
琉球でシーズン通した戦いを経験
──個人的に充実した2021年シーズン、京都はJ1昇格をつかみ取りました。けれど、中野選手はチームを離れます。
「3年目までの成績を考えれば、それもあるだろうと思っていましたし、チームがJ1に上がったことで戦力も補強される。その中で試合に出られるのかと考えると、難しいところはある。曺さんや徹さんらのスタッフ陣は好きでしたが、それと自分のキャリアはやっぱり別で」
──確かに、そうですね。
「そういう中で、FC琉球からオファーをもらいました。(プロ入り後)3年間戦ってきたJ2のチームでしたし、いいところに住めるなあと思って、迷うこともなく行きたいと。即決でした」
──沖縄には観光でしか行ったことはないですが、住むには良さそうな場所ですね。ただ、アウェイゲームがすべて飛行機移動というのは負担が大きいのでは?
「移動はめっちゃ大変でした。連戦の時期とかシーズンが進んでいくと、疲労が溜まっていくうえに移動がキツいので、ケガ人が出たりすることにつながりますね。大変だったのは間違いないですけど、住むにはいいところでしたし、試合にも出ることができましたし」
──まさにそこです。琉球での1年目は、33試合に出場して6ゴールを記録しました。いずれもキャリアハイです。
「シーズンを通して試合に出られる喜びというものを、やっと感じることができました。ラスト9試合はケガをしてしまって、J2残留争いをしていたチームの戦力になれなかった。そこはちょっと悔しかったところで、シーズンの最後まで戦う難しさを思い知ったというのもありました。ただ、シーズン中の1週間のルーティンを初めて経験できたのは、すごく大きかったです」
──月曜日から週末の試合へ向けて準備をしていって、翌週また同じサイクルで試合へ向かっていく、という。
「6ゴールという結果を残すこともできましたし」
体感したJ3ならではの難しさ
──翌2023年は試合出場数、得点ともに、さらにキャリアハイを更新しました。
「J3へ落ちてしまったので、1年でJ2へ昇格したかったんですけど。J2から落ちてJ3というのはなかなか難しい、と実感させられました」
──具体的にどういうことでしょう?
「去年の琉球は既存の選手が多く残って、これだけのメンバーが残ればいけるでしょう、みたいな雰囲気があった。チームの体制も大きく変わらなかった。J2に落ちてしまっているんだから、改善しなければいけないものがあったと思うんですけど、そこがうまくいかなかったのかな、と。もちろん、自分たちの力不足はありましたが」
──今シーズンの大宮は、体制を刷新しました。2023年の琉球とは少し違いますね。
「フラットな状況から始まって、新たな競争の中でシーズンが始まりました。そこはいいことじゃないかな、と思います」
──J2からJ3へ降格したチームの中で、1年でJ2へ戻ったのは2016年の大分トリニータだけなんですよね。
「そういうところなのかな、と思います。前年までJ2だったからJ3で余裕かって言うと、そんなことは決してない。僕自身、J3では勝てるだとう思っている自分がいました。このチームに勝てるだろう、ここには負けないだろうと思ったりしてましたけど、やってみると普通に強いんです。長くJ3で戦っているチームは、J3の戦いを知っているし」
──J2から落ちてきたチームに対して、相手は特別なモチベーションを燃やす気がします。食ってやろう、というような。
「そういうところもあるんじゃないですかね。今シーズンの大宮は、まさにその立場ですよね。どのチームも大宮を食ってやろうという気持ちで向かってくるでしょうから、それを跳ね返すだけの力を持ってやっていかないと。NACK5スタジアム大宮は雰囲気がいいので、それもまた相手が闘志を燃やす要因になるんじゃないですかね」
──NACK5スタジアム大宮に来るチームは、漏れなくモチベーションが高いのです。
「お客さんが入るし、お客さんとの距離も近いので、食ってやろうっていう気持ちが強くなると思う。それを真正面から跳ね返すくらいの勢いで、戦っていきたいなと思います」
──J3の難しさについて、チーム内で話すことはあるんですか?
「ちょくちょく、しますね。J3、やるぞって。J3を経験していない選手は、J3のチームがどういう戦い方をしているのか分からないでしょうから。僕自身は昨シーズンJ3でほぼフルで戦って、そういうものを肌で感じているので。アル(アルトゥール・シルバ)もカターレ富山で、(下口)稚葉もFC今治でJ3を戦っている。そういう選手が数人いるだけでも、全然違うと思います。引き締めることができます」
目標は10得点10アシスト
──中野選手自身は、NACK5スタジアム大宮の雰囲気をどう感じていますか?
「まだ開幕戦しかやっていませんが、いい雰囲気ですね。京都と琉球のときに試合で来ていますけど、アウェイゲームだとまた違いますし。開幕戦のバス待ちは、久々に震えました。すごいなと思ったし、興奮したし、鳥肌が立ちましたよ。ああいうのがサッカー選手の喜びだし、幸せな環境だなと思います。NACK5スタジアム大宮は、いい感じにコンパクトですよね」
──大宮入りについては、「徹さんが監督だから」という話がありました。
「恩返しとかいうよりは、あの人と一緒に勝ちたいと思って。その思いが強かったです」
──監督・長澤徹はどんな人ですか?
「ヘッドコーチと監督ではやっぱり違って、監督には監督なりの立ち位置があるのかなとか思いつつ……でも、僕が知っている熱い感じは全然変わらない。言葉一つひとつに芯があって、筋が通っているというか。男らしくて、裏表がない。ついていきたいと思わせてくれる人です。こういうサッカーが好きだから来ましたというよりは、本当に人として惚れていると言いますか。あの人についていきたい、あの人と一緒に勝ちたい、っていう思いで、(濱田)水輝くんとか稚葉とか(植田)悠太とか、みんなここに来ていると思うんで」
──アルディージャのファン・サポーターに、中野選手の思いを伝えていただければ。
「良いときも悪いときもあると思いますけれど、本当に1シーズンを通して一緒に戦ってほしいです。シーズンが終わったときにファン・サポーターのみなさんと喜ぶために、僕ら選手は全力で戦っていきます」
──数字の目標は?
「コーチングスタッフからは、10点取れって言われてます」
──10得点10アシストは狙ってほしいですね。
「10、10は狙いたいですね。開幕戦で1本惜しい場面がありましたけど、ああいうチャンスは絶対増えてくるんで。どれだけできるか、自分次第です。頑張ります」
戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。