【INSIDE】 下口稚葉「うまくなるとか成長を実感できることが、自分を前へ進ませてくれる」

選手の内面に迫ったロングインタビュー企画『INSIDE』。第5回は今シーズンから加入し、守備のユーティリティプレーヤーとして活躍する下口稚葉選手にオフィシャルライターの戸塚啓さんが話を聞きました。

聞き手=戸塚 啓

「うまくなるとか成長を実感できることが、自分を前へ進ませてくれる」


中高一貫のJFAアカデミーに進む

──下口選手のお名前、素敵ですね。どんな由来なのでしょう?
「きちんと聞いたことないんですけど、僕は5月生まれで若葉の季節じゃないですか。それで『若葉』にしようとして画数とかを調べたところ、『稚葉』がいいとなったらしいです」

──サッカー始めたきっかけは?
「5歳上の兄の影響です。2002年の日韓W杯をきっかけに兄が始めて、僕もそれについていった感じです。それで、地元のクラブチームに入りました。当時はトップ下とかFWをやっていました。ディフェンスのポジションは、あまりやっていなかったですね」

──中学生年代からJFAアカデミーへ行きます。
「セレクションを受けました。小学校から全国大会に出場することができて、北信越地区のトレセンに選ばれたりしていました。より高いレベルでやってみたいということで、父親やトレセンコーチの方に勧められて、セレクションを受けてみようと。実は京都サンガのスクールが滋賀県にあって、小学校4年からそこへ通っていたんです。なので、サンガのアカデミーへ行くことも考えたのですが、最終的にJFAアカデミーを選びました」

──そのころからもう、プロサッカー選手になりたいと思っていた?
「漠然と、ですね。家族やコーチの支えとか促しもあって、少しずつそういう気持ちが育まれていきました。滋賀のサンガのスクールには友だちと二人で通ったのですが、お互いの父親が順番に車で送迎してくれました。そういう支えがあったからサッカーを続けることができたんだなと、あらためて思いますね」

──入学のタイミングは2011年春ですから、東日本大震災の直後でした。JFAアカデミーは福島県双葉郡楢葉町のJヴィレッジを拠点にしていましたので、かなり大変だったのではないですか?
「どうなるんだろうと心配したところもあったのですが、かなり早いタイミングで静岡県へ場所を変えることが決まりました。僕自身は大きな混乱もなく、すぐにそこで生活を始めることができました」

──家族と離れることへの不安はなく?
「家族や友だちと離れ離れになることを、そこまで深く受け止めずに行った、という感じでした(笑)」

──JFAアカデミーとはどんなところだったのでしょう?
「本当に厳しい場所でしたよ。まずサッカーが第一なんですけど、人としてどうあるべきかという人間教育にも、サッカーと同じくらい力が入っていました」

──平均的な1日のスケジュールは?
「15時か16時ぐらいに学校から帰ってきて、それから練習、夕食、洗濯、あとは学習時間。勉強する時間も組まれていました」

──大変ですね!
「そのあと30分くらい自由時間があって寝る、という感じだったかなあ。アカデミーの座学もあって、英会話とかコミュニケーションスキルの授業が、トレーニングの一貫として組み込まれたり、オフの日にあったりしました。中学時代っていろいろなものに興味が向くと思うんですけど、日々のスケジュールも過ごしている環境も、余計なことを考えずにサッカーに集中できるものでした」

──ちょっと息苦しいなあ、なんてことはなく?
「なかったですね。今思えば、本当にすばらしい場所でした。地元の中学校へ通っていたので、アカデミー以外の友だちもできましたし」



菊原監督と出会いDFに

──サッカー選手として、転機になるような出会いはありましたか?
「中学2年生のときに、菊原志郎さんがU-14チームの監督になったんです」

──Jリーグ開幕以前の日本リーグ時代に16歳でデビューを飾り、天才少年と呼ばれた方ですね。
「志郎さんに厳しく、温かく、育てていただきました。ピッチの内外を問わずにまずは自分で考えなさい、とすごく言われました。こうしなさい、ああしなさいではなく、自分で考えなさいとすごく言われました」

──ポジションはどうなっていくのでしょう?
「志郎さんに出会って、CBを本格的にやり始めました。そこからはずっとディフェンスです。育成年代の日本代表に初めて選ばれたのも、確か代表チームにケガ人が出て、育成年代の指導スタッフもやっていた志郎さんが僕を推薦してくれたんです。それで、年代別日本代表にも招集されるようになりました」

──JFAアカデミーは中高一貫です。中学生当時から高校生との交流もあるのですか?
「はい、ありました。去年まで大宮にいた三幸秀稔さんが、全体練習後に『一緒にボール蹴ろうか』って声をかけてくれたり。僕自身は今横浜F・マリノスにいる小池龍太さんに憧れていて、いろいろと話をさせてもらったりしました」

──小池選手は3学年上、ですね。
「僕が中1のときの高1で、サッカーがうまいだけでなく、僕ら後輩にすごく優しく接してくれました。そういう先輩たちがプロになっていくのを見て、練習に取り組む姿勢とかは勉強になりましたね」

──2013年から2014年にかけては、年代別代表で活動しました。2014年にはAFC U-16選手権に出場しています。
「準々決勝で韓国に負けちゃって、U-17W杯の出場を逃しました。韓国には当時バルセロナB所属のイ・スンウというアタッカーがいて。彼は本当に衝撃的でした。全力で走っても全然追いつけない、みたいな」

──チームメートには堂安律や冨安健洋、田中碧といった現在の代表選手がいました。
「僕自身はそこで代表の活動が終わってしまっているのですが、当時一緒にやった選手が海外へ行ったり代表に入ったりするのは、すごく刺激になりました。今でも刺激になっています」


 

長澤監督の下でプレーしたプロ1年目

──JFAアカデミー卒業後は、J2のファジアーノ岡山へ入団します。
「いくつかのチームの練習に参加したのですが、岡山は練習参加の時点でオファーをくれて。当時のチームには加地亮さんや赤嶺真吾さんのような、自分でも知っている選手がたくさんいました。ここなら成長できる、と思いました」

──1年目はリーグ戦の出場がなかったですね。
「今また大宮で指導を受けている長澤徹さんが監督で、プロとはこうだというものを1年目はすごく教えてもらいました。リーグ戦は5試合ぐらいベンチに入っただけで、交代枠が『3』だったこともあってなかなか試合には出られなかったのですが……率直に言って実力が全然足りていなくて、練習についていくのでやっとでした。その中で、徹さんや当時のコーチだった戸田光洋さん、今は大宮のコーチの若宮直道さんといったスタッフの皆さんが、すごく助けてくれました。リーグ戦には出られなかったけれど、ちょっとずつ成長を感じられたシーズンではあったんじゃないかなと」

──プロ入りから複数ポジションでプレーするようになっていきましたか。
「紅白戦で対戦相手側になることが多くて、相手のシステムによってウイングバック、CB、ボランチと、いろいろなポジションをやりました。それによって、どんどんプレーの幅が広がっていったっていうのはあります」

──日々のトレーニングから、プレーの幅が広がっていった?
「それは確実にあります。まあでも、1年目はあれこれ考えている余裕もなく、ひたすら必死に練習していました。ずっと居残りをやった記憶もあります」

──岡山入りを後押しした、経験豊富な選手の存在はどうでしたか?
「18歳だった僕には、加地さんが衝撃でした。プレーはもちろんなんですけど、取り組む姿勢がすごくて」

──と、言いますと?
「朝5時ぐらいにクラブハウスに来て、体をチェックして、筋トレして、それから練習してっていう。僕のプロ1年目に加地さんは引退したんですけど、リーグ戦の最終戦の前日まで、試合に出ていても出なくてもそうやって過ごしていました。これが代表選手なんだ、ここまでやらないといけないんだ、と感じましたね。加地さんとの出会いは、ケガが少なくやれている要因の一つだと思います」

──なるほど。
「加地さんがやっていたことを見よう見まねでやってみたりして、自分なりにアレンジしていきました。プロ1年目に徹さんや加地さんに出会えたことは、僕にとってすごく縁だったんじゃないかなって思います」

──試合になかなか出られない1年目は、どうすればプロとして戦っていけるのかを、考えたりも?
「それは、今でも考えます。どのポジションでもできるのは武器ですし、左足もここ5年ぐらいずっと練習してきてようやく、ちょっとずつ、クロスが合ったりとか両足で選択肢を持てるようになったりとか。あとはゴール前で体を張るとか、1年目からやり続けてきたことがようやく形になってきているのかな」

家族の存在が苦しい時期の支えに

──岡山では2年目から試合に出ていきます。3年目は監督が代わり、シーズン途中にJ3のAC長野パルセイロへ期限付き移籍しました。これは出場機会を求めて?
「3年目は監督が代わって、いろいろなポジションで使われたんですが、さっきの話じゃないですけど自分の武器は何だろうとか、何をしたらいいんだろうとか、ちょっと混乱したところがあって。環境を変えてもう一回チャレンジしたいと考えていたところで、長野パルセイロさんに声かけてもらいました」

──で、実際に行ってみて?
「監督の横山雄次さんは本当に厳しかったです。守り方とかいろいろな決まりがあって、シーズン終盤にちょっとケガしちゃったんですけど、有意義な時間でした」

──2020年から再び岡山へ戻りますが、出場機会を大幅に増やすことはできませんでした。苦しい時期の支えとなったものは?
「2019年に結婚をして、2020年に第一子が生まれたので、家族の存在はもちろん支えになりました。試合に出られなくて苦しかった記憶はめちゃくちゃありますけど、僕自身は歩みを止めたり、態度に出したり、スイッチを切ったりするほうが怖いんです。いつでもやり続けてここまできたサッカー人生なので、切れるという考えにはそもそもならないタイプです」

──ということは、オフもあまり休まないですか?
「そうですね、あまり休まないですね。シーズンオフだと、最初の3日間ぐらいは体を休めますけど、長く休むのが怖いタイプで(苦笑)」

──ご家族で旅行へ行ったりしても、体を動かす?
「ちょっと動いちゃいますね。いつも危機感があるというか。休むことも必要なので、良くない種類の危機感ですが」

──でも、休むのが難しいというのは理解できます。年齢とかケガをしたことがあるかどうか、などにもよるでしょうし。
「休むのが大事なのは分かっているんですけど、そこの切り替えはうまくないです。体を動かさないと、それでいいのかなと考えちゃう自分がいて。だからといって、ケガが多いわけでもないので、今のところはそれで問題なくできているというのはあると思います」

──現時点では、そのやり方が体に合っているのでしょうね。
「そうなんだろうな、と思います。5月で26歳になりますけど、年齢を重ねることによって、日頃のケアもオフの過ごし方も、きっと変わっていくとは思っています」

FC今治で駒野友一と出会う

──これまでのキャリアについて、話を戻します。2022年からはJ3のFC今治へ期限付き移籍しました。
「岡山でなかなか出場機会をつかみきれなくて、本当に出場機会を求めたというのが一番でした。そのタイミングで声をかけてくれたので、迷わず飛び込んでいこうと。プロ6年目でしたし、出場機会を積み重ねながら成長しないといけないと、強く感じていました」

──ここでまた、新たな出会いも?
「駒野友一さんですね。技術がとにかく高くて。駒野さんは2022年に引退したのですが、その年の最後の3カ月くらいは、全体練習後に1時間くらい二人でクロスを蹴っていました」

──駒野さんも下口選手と同じように、左右両足蹴ることができますからね。
「駒野さんはどちらの足でも同じフォームで、同じところに蹴ることができるんです。すごくシャイでワイワイ騒ぐタイプじゃないんですけど、プレーでしっかり見せてくれました。一つひとつの技術は、さすが日本代表に選ばれる方でした。トップレベルでした」

──良い出会いがありますね
「プロになってからだけでなく、小さいころから出会いにはすごく恵まれていると感じます」

大宮に移籍し長澤監督と再会

──今回の大宮入りも、かつての出会いが結んだ縁で、ということですね。
「徹さんが監督になるということで呼んでいただいたので、迷うことなく決めました」

──長澤監督とは2018年以来6年ぶりの「共闘」となります。
「僕の中では全然変わりません。京都ではコーチでしたけど、僕の中ではやっぱり監督で。本当にいろんなところが見えている方なんです」

──「うわっ、そんなところを見てたのか」と思うことがあったり?
「たくさんありますよ。本当に細かいところまで見てもらえていると感じていて、自分の感情を理解してくれている。その中で声をかけてくれたりして。気配りがすごい。たぶん僕だけじゃなく、みんながそう感じていると思います。一方で、本当に厳しい。一瞬のスキとかは絶対許さない。僕自身は本当に気が引き締まります」

──開幕から試合に絡んでいます。開幕節ではすばらしいクロスでアシストを決めました。
「あれは、キャンプから練習していた形の一つです。左足の練習はずっとやっていて、10本中1本しか思ったところへ蹴られなかったのが、5本ぐらい蹴られるようになってきて。今日もコーチの喜名さんと練習後に蹴りましたけど、『いくようになったじゃん』とか言われるのがすごく楽しくて。練習でやってきたことを試合で出せたときの喜びは、練習の倍ぐらいのものがあるんです。サッカー選手はみんなそうだと思うんですけど、その喜びを知っているからがんばれる、というのはあります」

──その喜びに浸って満足するのではなく、さらに頑張る。
「試合に出られなかった時期も、自分がやるべきことをやり続けて何とか乗り越えてきた自分がいます。もっとシンプルに、練習していてうまくなることが楽しい、というのもあります。もちろん試合に出ることが選手としての軸なんですけど、うまくなるとか成長を実感できることが、自分を前へ進ませてくれるところはありますね」

──第2節のFC岐阜戦では、芸術的なシュートを決めました。
「個人的にはたまたまだったと思います。でも、やっぱり練習している選手だからこそ、『たまたま』が訪れるんだろうと思っています。早い段階でそうやって成果が出たのは、すごくうれしかったですね。もちろん、それで満足しているわけではなく、これからも結果を残していかなきゃいけない、という気持ちです」

──チームの戦いぶりについては?
「プレシーズンの準備段階から、徹さんは勝ちにこだわると言っていました。キャンプのトレーニングマッチはプレッシャーが少ないので、伸び伸びやれるところがありますが、リーグ戦は勝負がかかってくるので、いろいろなプレッシャーや重圧がのしかかってきます。最初の2試合ぐらいはやってきたものを必ずしも出し切れなかったですけど、徐々にこう……」

──出し切れるようになってきている。
「第4節の相模原戦は1-1の引分けでしたけど、徹さんもおっしゃっていたように後半はみんなが勇気を持って、覚悟を持って、あの強風の中で顔を出してプレーできた。それはすごくポジティブなことです。第5節の宮崎戦も、すごくいい形でボールを持つことができた。ボールを持つことが目的ではないですけど、自分たちの時間をより多くできたっていうのは、徐々に、徐々にですけど、いいリズムになっているんじゃないかな。そういう意味では、開幕から勝点を取れていること、勝利を持ってきていることは、すごくいいことだと思っています。でも、まだまだスキが多い。そういうところをもっと詰めてやっていくことが、僕らがやっていくべきことだと思うので。まだ何も手にしてないですし」

──確かにそうですね。
「結果が出ている時期でも、その都度気を引き締めてやっていければと思います」

──監督が代わり、選手も多く入れ替わりという中で、非常にスムーズにチームが機能していった印象です。
「難しいことを求められているわけでなく、守備も攻撃も当たり前のことを徹底する。そこは明確なので、選手みんながポジティブにやれています」

シーズンを戦いながら成長する

──下口選手のチーム内での立ち位置は? 積極的に盛り上げている印象がありますが。 
「声を出したりとかいうのは、自分がやるべきことだと思っています。ちょっと緩そうだなとか、ちょっとどんよりしてるなと思ったら、意図的に声をかけるようにしています。自分自身を鼓舞する目的もありますけれど、やっぱりチーム全体がいい雰囲気の中で練習をして、いいテンションを保ち続けるようにというのは、つねに心がけています。そういう役割も求められてここに来たと、自分では思っているので」

──そしてもちろん、選手として成長できる環境だと。
「そう思って、このチームにきました。実際にそのとおりだと思います」

──戦うカテゴリーはJ3でも、日々の練習に取り組む意識はJ1レベルで、という声も聞きます。
「そういう雰囲気で取り組んでいます。シーズンを戦いながら、個人としてもチームとしてももっともっとレベルを上げていく。そのために練習から厳しくやっていく。それに尽きるかな、と思います」

──下口選手は昨シーズンもJ3でプレーしています。リーグの特徴を教えてください。
「一番はフィジカル的な局面が増えるということ。それと環境です。J1やJ2のスタジアムとの違いだったり、試合の雰囲気の違いだったり、そういう外的要因に惑わされない。どれだけ自分たちを保ってやれるかというのは、すごく大事だと思いますね」

──スタジアムの空気感は、たとえば試合の入り方などに影響しそうです。
「ふわっと入っちゃったりすることが、起こりうる可能性もあります。ここまでそういう試合はないので、引き続き気をつけたいですね。あとは昨シーズンだと夏場で14時キックオフの試合がありました」

──えっ……猛暑の中での試合ですね……。
「タフなリーグなのは間違いないです」

──NACK5スタジアム大宮はどうですか?
「これまで自分がプレーしてきたスタジアムでは、一番と言っていいぐらいすばらしいです。対戦相手としては2回、立ったことがあるのかな。そのときもすごいなっていう印象でした。NACK5スタジアム大宮に立つといつも鳥肌が立ちます。すごくいいスタジアムだと思うし、ここなら絶対に勝てるっていう強い思いが湧く。それはきっとファン、サポーターの方が作り出す雰囲気が、そう感じさせてくれるんでしょうね」


──ところで、下口選手は福井県福井市出身で、能登半島地震の被害に見舞われた地域ですが……。
「ちょうど実家に帰っていて、地震が発生したときは一人で車を運転していました。かなり揺れましたし、そのあとの余震もすごかったです。実家では何かあってもすぐ避難できるように、玄関とか窓を開けて過ごしていました」

──ご家族や親戚の方々は、みなさんご無事で。
「はい、大丈夫でした。大きな被害もなかったです。石川県や富山県では大変な被害が出ているので、思うところはあります。発災後すぐは何もできなかったので、自分に何ができるのかをこれから考えて、少しでも復興につながるような活動をしたい、と考えています」

──最後にファン・サポーターへのメッセージをいただけますか。
「僕たちは始動からてっぺんを、J3優勝を目標にしています。そこへ向けて突き進むだけですし、ときにはうまくいかない時期、苦しい時期もあると思いますけれど、ファン・サポーターのみなさんと一緒になって、最後に喜べるように。そこが、自分たちが思い描いているところです。みなさんには少しでも熱い応援をしていただけたらうれしいですし、僕たちが熱いプレーでみなさんを盛り上げられるようにがんばっていきます」


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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